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種別 小銃 動作方式 ボルトアクション 口径 6.5mm 装弾数 5発 銃剣 ○ 概要 日本軍のボルトアクション小銃。大戦の初期~中期に登場する。 小銃兵や対戦車兵が主に装備している。 コメント 日本軍三種の神器の一つ -- 名無しさん (2013-04-05 08 35 29) フランスのライフル同様銃剣のリーチが長い、白兵戦を挑む時は注意しよう -- 名無しさん (2013-04-05 16 13 51) 若干威力が低いがモシンナガンと並んでボルトアクションでは非常にバランスの良い銃。敵兵装備の強さに泣く事も多いが、きちんと使えれば長~中距離では早々負けない。 -- 名無しさん (2013-05-08 20 06 09) 各国が初期を中心に装備し、日本でも後年二式タ弾として登場するライフルグレネードが本銃には存在しない(代りに八九式重擲弾筒があるが)。これは別に擲弾筒があるからというだけではなく、実際に三八式は小径弾使用により内圧がどうしても低く、空砲圧で重量物を飛ばすライグレという用途自体に不向きで使用出来なかったからである(もっともそれだけの問題ではなく、冶金技術的に耐圧性の高い銃身が作れなかった事情もある)。この辺は結構問題視されていたようで、九九式小銃で大径化した理由の1つとも言われている。 -- 名無しさん (2014-02-19 12 44 14) 名前 コメント
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460 名前:ゲーム好き名無しさん[sage] 投稿日:2014/10/02(木) 17 14 23.48 ID Agn9+1xEO [1/2] キス…か? 繋がりで艦これで、軍オタさまから御高説をうけたって詰まらん話題で恐縮なのだが報告 コンベの募集で、「輸送艦の海上護衛シナリオをやります。オリジナルのNPC艦が出ても許してくれる方きてください」という触れ込み オリジナル艦は戦闘能力皆無(機銃のみ)で全員完全轟沈させたらミッション失敗、残数で経験点ボーナスというレギュ 艦種に制限かけませんが、デコイや庇うスキル持ちがいると有利かもしれません! と親切に対応してくれた が、それは羊の皮を被っていた狼の姿だった バランスを重視して、大和級戦艦、正規空母、重巡、軽巡、駆逐でメンバーを編成大半が盾スキルを持ち、偵察ユニットも完備した 軍オタじゃないのでよくわからないが外国の都市名(リオデジャネイロとか?)の怪しさ爆発な南米ハーフ風のオリジナル艦娘が三人オープニングで登場し、彼女らを護衛するように命じられる 半分が艦これRPG経験者で、他は提督(ブラゲ)経験者、漫画や雑誌の特集読んだ程度の知識だった 462 名前:ゲーム好き名無しさん[sage] 投稿日:2014/10/02(木) 17 16 59.52 ID Agn9+1xEO [2/2] 南米ハーフな艦娘さんらと交流しながら、日常シーンこなして出撃 ここからが地獄だった 出てくるのは空母と潜水艦という特殊ユニットのみ! 空母の飛行機でNPCをピンポイント狙撃され次々負傷していった なんとか沈ませずに凌いだが、ボスとして現れた潜水艦軍団は攻撃できる艦が二人しかおらず、対応できる装備も用意していなかった 盾スキルも対応しきれず、護衛対象とPCの半数は海の藻屑と消えていった ミッション失敗と宣言され、護衛ミッションに大型艦を選んだところが旧日本軍的思考だとか 日常シーンで敵編成を重点的に捜査すれば潜水艦がいるとわかった(ただし調べれるかは運) かって日本は潜水艦を侮り補給を失った 等々、閉会式まで戦史とか護衛の話聞かされた 説教GMって初めてあったが、外部で艦これRPG卓は地雷と刷り込まれたよ 463 名前:ゲーム好き名無しさん[sage] 投稿日:2014/10/02(木) 17 18 21.88 ID OW2cKM2o0 移民船から徴用されたのでリオデジャネイロ丸ってのがおるから多分それかな・・・ にしても、こういうリアルリアリティな奴ってどしていなくならないのか 464 名前:ゲーム好き名無しさん[sage] 投稿日:2014/10/02(木) 17 21 52.60 ID dHU+dTMr0 輸送艦の護衛任務に大和型はないわ、というのも分からんではないが、それならそれで事前に却下すればいいのにな 結局、PLを嵌めて説教したかっただけにも見えるよな 465 名前:ゲーム好き名無しさん[sage] 投稿日:2014/10/02(木) 17 24 03.89 ID EBebe0P70 462 〉外部で艦これは地雷 いやそれは違うと思うゾ 466 名前:ゲーム好き名無しさん[sage] 投稿日:2014/10/02(木) 17 32 08.14 ID 6lm0Up2Z0 [2/4] 他メンツ全員が嫁?らしい艦娘のRPを熱く演ずる卓に当たった時 艦これRPGは2度とやるまいと思った 469 名前:ゲーム好き名無しさん[sage] 投稿日:2014/10/02(木) 17 41 36.65 ID ILellE6VO [8/11] 逆に艦これ知らないけど卓ついた層は ついていけずに冷めた目になっていくこと必至なのでーす まぁ困製造機だな 470 名前:ゲーム好き名無しさん[sage] 投稿日:2014/10/02(木) 17 47 10.57 ID OOr5kwaY0 [3/4] 事前情報無し、編成自由なのにボス潜水艦の時点でPLだまし討ちする気満々じゃねえか こういうクズGMのせいでシステム自体に嫌悪感もたれると思うと腹立つわ スレ397
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≪全国のみなさまへ、賛同のお願い。まわりに広めてください!≫ 橋下徹大阪市長による 日本軍「慰安婦」問題の事実わい曲・女性差別発言 への抗議に、賛同をお願いいたします。 (呼びかけ:日本軍「慰安婦」問題・関西ネットワーク) 橋下市長は、8月21日と24日の記者会見で、 日本軍「慰安婦」問題について問題発言を行いました。 一つは、 「慰安婦」被害者たちが訴えた裁判で事実認定されているにもかかわらず、 「強制連行はなかった」と無責任に言い放ち、さまざまな調査を行った結果 を根拠として作成され、歴代の首相が踏襲し、政府の公式立場になっている 「河野談話」を否定し、見直すべきだと言ったことです。 二つ目は、 日本軍「慰安婦」制度そのものについて、戦争状態であれば問題がないかの ような、女性の人権侵害もはなはだしいことを言っています。 私たちは、これらの橋下市長発言をとうてい看過できません!! すでに8月24日、橋下市長宛に公開質問状を届けました。 回答は、9月6日の予定です。 さらに、全国からの抗議の声を、橋下市長に届けましょう!! 別紙抗議文、「橋下市長による日本軍『慰安婦』問題の事実歪曲発言に抗議し、 発言の撤回と被害者への謝罪を求めます」に、 賛同をお願いいたします。 目標1万人の賛同者集めです。 2週間しかありませんので、ぜひまわりの方々に声がけをお願いいたします。 さあ、力を合わせましょう!!! ◆賛同について ===全国から個人・団体を合わせて1万集めます! 広めてください!=== ・個人と団体が、賛同人になれます。 ・1.名前 2.住所(都道府県名まで。団体は、名称に地域名が 含まれていない場合、所在地を都道府県名で。) 3.「抗議に賛同」と書いてください。 ・賛同の連絡先 ☆メールの場合:ianfu_ketsugi@jca.apc.org または、HPから直接連絡できます。 (ただ今準備中。9月初頭に完成予定)http //www.jca.apc.org/ianfu_ketsugi/ ☆ハガキの場合:〒544―0033 大阪市生野区勝山北4―9―12 Cafeナビ気付 日本軍「慰安婦」問題・関西ネットワーク 宛 ・9月15日締切 ・賛同状況の報告は、HPにします。 http //www.jca.apc.org/ianfu_ketsugi/ ・団体名のみ、HPに掲載します。 ・抗議文と賛同者名(個人・団体とも。名前と住所)は、9月下旬に、橋下市長 に届けます。 同日、記者会見を行う予定です。 :::::::::::::::::::::::::::::: 以下、抗議文です。 橋下市長による日本軍「慰安婦」問題の事実歪曲発言に抗議し、 発言の撤回と被害者への謝罪を求めます 橋下徹大阪市長は8月21日および24日の記者会見において、日本軍「慰安婦」問 題について発言しましたが、その内容は歴史的事実に反するばかりか、女性の人 権をないがしろにする重大な問題を含んでおり、とうてい看過できません。直ち に発言を撤回し、日本軍「慰安婦」被害者に対して謝罪するよう求めます。 報道によれば、橋下市長は竹島問題をめぐる日韓関係の悪化の背景に「慰安婦」 問題があるとし、「この問題に関する韓国との見解の違いは強制連行の事実なの か、『慰安婦』の存在自体の問題なのか」と持論を展開しました。そして、「強 制連行が問題なら、軍に暴行脅迫を受けて連れてこられた証拠はない」「証拠が あるなら(韓国に)出してもらいたい」と述べています。また、「『慰安婦』の 存在そのものを問題にするのなら、戦争状態において『慰安婦』制度というのは、 今から考えると倫理的に問題な制度なのか分からないけれども、当時の時代背景 において、どうだったのかを議論しなければ」と発言しています。 ■日本政府の公式立場である「河野談話」を否定する根拠を示してください! 被害者を再び傷つける発言を撤回し、被害者に謝罪してください! 日本軍「慰安婦」問題についての日本政府の公式立場は、1993年の「河野官房 長官談話」にもとづく「軍の要請を受けた業者が主としてこれに当たったが、そ の場合も、甘言、強圧による等、本人たちの意思に反して集められた事例が数多 くあり、更に、官憲等が直接これに荷担していたこともあった」というものです。 「河野談話」は、当時の内閣官房外政審議室の調査結果に根拠を置いています。 警察庁・防衛庁・法務省・外務省などの各省庁および、国立公文書館や国会図書 館、米国国立公文書館などを調査対象とし、さらに被害者や元軍人らからの聞き 取りに加え、歴史研究家などへも調査を行ったものです。従って、この談話は安 倍元首相を含む歴代首相が踏襲し、長年日本政府の公式立場となってきました。 橋下市長はこれについて疑念を呈したばかりか、具体的な根拠を示すことなく、 「河野談話は見直すべきだ」「単に(「慰安婦」だった人の)証言があればいい というわけではない。その証言に信憑性があるかをあいまいにしたまま出した河 野談話は最悪だ」とまで言い捨てています。 また、強制の証拠は韓国に求めるまでもありません。各国の被害者たちは日本 政府の謝罪と賠償を求めて、日本の裁判所に10件の「慰安婦」訴訟を行なってい ます。すべて敗訴しましたが、8件で被害事実が認定されています。2004年12月の 中国人「慰安婦」訴訟で、東京高裁は「日本軍構成員によって、駐屯地近くに住 む中国人女性(少女も含む)を強制的に拉致・連行して強かんし、監禁状態にし て連日強かんを繰り返す行為、いわゆる『慰安婦』状態にする事件があった」と 認定しました。就労詐欺などによって「慰安所」に連れて行かれ、暴力をもって 強かんされた被害者たちも、「強制」です。橋下市長の安易に政府の公的立場を 否定し、被害者の証言や判決を無視する態度はとうてい弁護士資格を有する人の 態度とは思えません。 「強制連行の証拠はない」という主張は、日本軍「慰安婦」の存在を否定した い人々の常套句です。その背景には、自ら募集に応じた「商行為」だったと言っ て被害者を貶め、日本政府の責任を回避しようという意図があります。市長はそ うした発言を鵜呑みにせず、自ら日本軍「慰安婦」問題の歴史と事実にしっかり と目を向け、勉強してください。 ■戦時下であっても、女性が性奴隷とされることを容認するような発言は女性差 別の最たるものです! さらに、橋下市長は、「慰安婦」制度があったのは戦時下で、軍隊が行ったこ とをもって「日本だけか」と正当化するような発言をしています。「慰安婦」制 度は紛れもなく当時の国際法に違反しており、日本の刑法にも違反する犯罪行為 で、戦時下であっても決して許されることではありません。 1991年以降、アジア各国で「慰安婦」被害者が名のり出られ証言されましたが、 日本政府は一貫して法的に解決に済みという立場で、被害者の訴えを退けてきま した。これに対し、国際社会からも解決を求める声があがっています。国連の人 権委員会、社会権規約委員会、自由権委員会、女性差別撤廃委員会など様々な機 関が日本政府に被害者への公的謝罪と賠償を求めています。2007年にはアメリカ 下院議会を皮切りにオランダ、カナダ、欧州議会で「慰安婦」問題の解決を求め る決議があがっています。いずれも背景にあるのは「日本軍『慰安婦』制度は女 性に対する最大の人権侵害であり、戦時性暴力の象徴だ」という考え方であり、 この問題の解決は世界の人々にとっても重要な関心事であるということです。 日本を含むアジア各国の多数の女性たちが、過酷な状況で自分の意に反して日 本軍兵士の性のはけ口とされたことを、「戦時下だったから、倫理的に問題がな い」とは、耳を疑う発言です。 言い換えれば、橋下市長の女性に対する人権意識はその程度のものだと言うこ とができ、そんな人を大阪市長にしているとは恥ずかしい限りです。 ■大阪市会で採択された「意見書」に矛盾する発言に説明を求めます! こうした国際社会の声に押され、国内でも市民らによる地方自治体での「慰安 婦」意見書を求める運動が拡がりました。大阪市においては2010年10月に、「日 本軍慰安婦問題の早期解決に関する意見書」が採択され、「河野談話に矛盾しな いよう、慰安婦問題の真相究明を行い、被害者の尊厳回復とともに、今なお存在 する女性への暴力・人権侵害の解決に向け、誠実に対応されるよう強く要望する」 との意見書を政府に提出しています。このたびの橋下市長の発言は、これに真っ 向から反するもので、大阪市長として矛盾した対応であり、絶対容認できません。 以上、一刻も早い発言の撤回と謝罪を求めます
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別名「キングチーハー」 -- 名無しさん (2009-04-04 23 29 53) 不細工な戦車www -- 名無しさん (2009-04-28 18 37 00) ↑お前ちょっと表へ出ろや、チハたんバカにしやがって -- 名無しさん (2009-06-04 17 52 28) ↑↑不細工・・・だと?強いんだぞ!?チハたんなめるな!w。 -- ちはタンばんじゃーい! (2009-06-05 20 02 46) これは固定砲として使った方がいい -- 名無しさん (2009-08-09 11 54 58) バランスw -- 名無しさん (2009-08-26 00 00 06) パンター並の威力が出るらしいな。強そうだ -- 名無しさん (2009-09-12 05 39 01) ↑パンター並みの装甲はないよ・・・ -- 名無しさん (2009-09-24 12 55 44) 駆逐艦相手なら勝てそうな気がする・・・・ -- 名無しさん (2009-11-15 17 01 00) 山のてっぺんで戦った方がいいと思う -- 名無しさん (2009-12-01 16 51 22) かっけぇええええええ!!!チハタンバンジャーイ!!!∩(・ω・)∩ -- 名無しさん (2009-12-22 17 37 07) この戦車大丈夫だろうか?あんなのだと重量が重過ぎると思うが。 -- 名無しさん (2010-02-13 22 59 51) 火力もなかなか強い、だがオープントップなのが悔やまれる、 -- 名無しさん (2010-03-04 13 17 59) 移動砲台目的で作られた為、巡洋艦から取り外した砲を乗っけた奴、実車写真残っている -- 名無しさん (2010-06-13 09 19 08) 高射砲ではなく、高角砲。ここは譲らぬ -- 名無しさん (2010-08-07 11 32 21) 対空砲じゃあるまいし。シールドぐらい・・・。 -- ボストンバック (2010-08-09 14 48 19) 塹壕に隠れるために作られたのでは -- 名無しさん (2010-08-16 11 59 57) ごめんなさい 隠れられるように ですね・・・ -- 名無しさん (2010-08-16 12 01 09) ↑? -- 名無しさん (2010-08-18 23 06 09) 日本語学校行ってきます・・・ -- 名無しさん (2010-08-21 22 56 04) キングチーハーに80cm砲を載せたら最強 -- 名無しさん (2011-01-10 10 09 48) ↑走れん -- 名無しさん (2011-01-10 16 33 21) 一応 史実ではちゃんと砲塔からのカバーはありました -- チハ (2011-03-22 18 54 50) 確かに。どの写真見てもある・・。 -- 帝國 (2011-03-22 19 07 40) 学校のいすっぽいのがあるw -- 名無しさん (2011-04-16 13 46 35) 時代を先取りした海軍 -- 凉月 (2011-04-17 19 47 57) この戦車の唯一の戦果(?)は近所の家の塀、砲がでかすぎてぶつかったらしい -- 名無しさん (2011-05-27 22 30 26) ↑↑↑↑間違いでした。どうやらこれは、長砲身のもので、自分が見ていたのは、短砲身でした。 -- 帝國 (2011-06-07 10 12 10) なんだこのやっつけ仕事チハはw -- 名無しさん (2011-09-11 14 36 48) 何か笑えるけど・・・・、やっぱかっこ良い日本軍バンジャーイ\(^o^)/ -- (名無しさん) 2013-03-09 15 16 48 ついにWar Thunderの公式ツイッターでも「キングチーハー」って言ってた -- (名無しさん) 2020-08-27 06 37 34 キングチーハーキングチーハーキングチーハーキングチーハーキングチーハーキングチーハーキング -- (名無しさん) 2022-04-04 15 43 34
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日中歴史共同研究 第1期「日中歴史共同研究」報告書 目次 第2部 戦争の時代 第2章 日中戦争-日本軍の侵略と中国の抗戦 日中戦争―日本軍の侵略と中国の抗戦 波多野澄雄・庄司潤一郎<その2> 波多野澄雄:筑波大学大学院人文社会科学研究科教授(委員会委員) 庄司潤一郎:防衛省防衛研究所戦史部第1 戦史研究室長(委員会委員) http //www.mofa.go.jp/mofaj/area/china/pdfs/rekishi_kk_j-2.pdf 目次 日中戦争―日本軍の侵略と中国の抗戦 波多野澄雄・庄司潤一郎<その1> 日中戦争―日本軍の侵略と中国の抗戦 波多野澄雄・庄司潤一郎<その2>第2節 戦線拡大と持久戦2)「長期持久戦」への転換-対峙段階の戦争a.武漢・広東攻略と長期持久体制 b.中国の抵抗 3)東亜新秩序声明と汪兆銘政権の承認a.東亜新秩序声明と汪兆銘の重慶離脱 b.英ソの牽制―日独同盟と天津租界封鎖 4)汪政権の樹立と重慶和平工作 第3節 日中戦争と国際関係1)列国の中国援助と対日経済制裁 2)欧州大戦「不介入」と南進政策 3)日独伊三国同盟と日ソ中立条約 72 4)日米交渉と中国問題a.事変解決と対米交渉 b.中国駐兵問題と破局 第2節 戦線拡大と持久戦 2)「長期持久戦」への転換-対峙段階の戦争 a.武漢・広東攻略と長期持久体制 参謀本部は徐州作戦に続いて漢口作戦と広東作戦を承認した。この二つの大作戦は南京攻略後から作戦部と現地軍において研究されていたもので、徐州作戦の成功がこの作戦の決定を後押しした。漢口と広東の攻略により中国主要部の実質的支配が達成され、列国の中国援助ルートにも打撃を与え軍事的に事変解決を図ることができるはずであった44。 中支那方面軍は、38 年8 月末から30 万を動員して「蒋政権の中枢である武漢三鎮」の攻略戦を展開し、10 月末には漢口を占領した。さらに9 月下旬から広東攻略戦など華南作戦における作戦を敢行し、ほとんど無抵抗のうちに広東をも占領した。中国戦線に投入された兵力は100 万に及び、対ソ戦用の兵力まで引き抜かれて日本の軍事力は限界に近づいていた。しかし、蒋政権は屈服の気をみせず、首都を重慶に移し正面作戦を縮小して四川省周辺に立てこもって「持久戦」を展開する体制をとる。因みに、武漢・広東作戦を通じて毒ガスの効果が実証され、38 年12 月、参謀本部は「大陸指345 号」によって、「特種煙」(あか筒、あか弾、みどり筒)の使用を認めることを各軍に指示し、中国戦線での毒ガス使用が一般化したといわれる45。 漢口、広東作戦後の38年11月中旬、陸軍省と参謀本部は新しい戦争指導の基本方針を合同決定し、12月初旬に天皇の裁可を得て発令された。それは、作戦地域を限定し、兵力を節減しながら占拠地 44 戦史叢書『支那事変陸軍作戦(2)』朝雲新聞社、1976 年、109-12 頁。同『大本営陸軍部(1)』朝雲新聞社、1967 年、542-53 頁。 45 ただし、致死性ガス(きい剤)は、39 年5 月に山西省に限定した実験的使用が認められたのが最初といわれる(吉見義明・松野誠也編『毒ガス戦関係資料Ⅱ』不二出版、1997 年、9-39 頁)。 12 域の安定確保と治安回復、資源獲得を図り、「長期持久の体制」に移行することを目標としていた。事変開始以来、北支那方面軍や中支那方面軍に与えられていた、中国軍の戦争意思を挫折させ、戦争終結の機会をつかむ、という作戦目的は初めて変更されたのである46。こうして事変は新たな段階を迎える。 持久戦体制の下で日本軍が重視した戦略が、重慶など内陸部の要衝都市と内陸部にいたる援蒋ルートの遮断を目的とした、航空機による波状的な空爆であった。漢口飛行場を起点とし、38年12月から始まった奥地爆撃は、重慶など主要都市の市街地爆撃が含まれ、市民に大きな被害を与え、重慶爆撃では全期間を通じた中国側の死者は約11000人と言われる47。しかし、頻繁な奥地爆撃も飛行機の不足、致命的目標の欠如などから国民政府に大きな打撃を与えることはできなかった。 b.中国の抵抗 日本軍の大規模な軍事攻勢が一段落したとき、中国の大衆的ナショナリズムは蒋介石政権の対日和平や屈服を許さない規模で広がりつつあった。占領地域や作戦地域の拡大が刺激剤となり、それまで学生や都市住民、軍人にとどまっていた民族運動は、数千万の農民を含む大運動に膨れ上がっていた。蒋介石はこうした大衆的ナショナリズムに応える術を持たなかったが、中国共産党はその要望によく応え、とくに農民大衆の支持を急速に拡大させていった48。 38 年秋、中国共産党は、武漢陥落をもって抗日戦争が「対峙段階」に入ったことを確認し、国共合作を堅持しつつ長期戦を戦い抜くことを決定した。さらに共産党はその主要な活動を敵の後方におく方針を決定し、共産党軍は日本軍の後方の農村地帯に進出して民衆武装によるゲリラ戦を展開し、各地に抗日根拠地を建設していった。抗日根拠地は全国的に広がっていくが、とくに華北において強力であった。 38 年12 月、参謀本部は占領地域と主要交通線の確保を華北と華中の現地軍に命じた。華北では、共産党軍のゲリラ活動に対抗するため、部隊を市や町の拠点に細分化して分散配置する「高度分散配置」と呼ばれた配備形態を採用した。遊撃戦法を封殺し、住民の組織化や懐柔によって民生安定を図るのに適した部隊の配備形態でもあった49。他方、方面軍は、39 年初頭から抗日根拠地に対する「治安粛正」作戦を展開して、一定の成果を挙げた。 しかし、華北で勢力を拡大していた共産党軍(八路軍)は、40 年8 月下旬から年末にかけて、ベトナム戦争中のテト攻勢にも匹敵する大攻勢(「百団大戦」)を展開し、石太線を中心に、橋梁、通信施設などを徹底的に破壊し、北支那方面軍指導部を震撼させた。方面軍が虚を突かれた主たる原因は共産党軍に関する情報・諜報活動の欠如であった50。同時に、百団大戦は高度分散配置の弱 46 前掲、井本『作戦日誌で綴る支那事変』306-08 頁。 47 「中国側から見た重慶爆撃」を含む最近の研究成果として、戦争と空爆問題研究会編『重慶爆撃とは何だったのか―もう一つの日中戦争』高文研、2009 年。 48 戦場となった中国において、過酷な人員・食糧の動員と徴発がなされ、社会の混乱と変容をもたらしたが、それが中国共産党が支持を拡大していく社会的基盤の形成につながった(笹川裕史・奥村哲『銃後の中国社会』岩波書店、2007 年)。 49 戦史叢書『北支の治安戦(1)』朝雲新聞社、1968 年、114-47 頁。山本昌弘「華北の対ゲリラ戦,1939-1945」(前掲、波多野・戸部編『日中戦争の軍事的展開』)189-218 頁。 50 当時陸軍は国民党軍の暗号の80%を解読していたが、共産党軍の暗号はほぼ皆無であった(前掲、山本「華北の対ゲリラ戦」200 頁)。また、戦史叢書『北支の治安戦(1)』382-83 頁。 13 点を暴露し、少数兵力で分散駐屯していた部隊は、人海戦術による攻撃に圧倒された。百団大戦は、日本軍による宜昌攻略などの圧力によって動揺し、対日和平に傾きかけていた国民政府を鼓舞する役割を果たしたといわれる51。 百団大戦に衝撃を受けた方面軍は、報復的な粛正作戦(第1 期、第2 期晉中作戦)を展開し、41年6 月には大規模な華北治安の安定化作戦として中原作戦を実施し、大きな戦果を挙げた。中原作戦後の41 年7 月には、「粛正建設 3 ヵ年計画」を策定し、「未治安地区」(解放区)を「准治安地区」(遊撃区)に、「准治安地区」を「治安区」に変えていくという計画を推し進めた。また、方面軍は、41 年3 月から汪兆銘政府との協力のもとに、軍事・政治・経済の三位一体の運動として、新民会による反共工作の強化などを含む「治安強化運動」を展開した。これらの治安強化作戦の重点は、解放区の経済封鎖に置かれるようになり、軍の「現地自活」要求の強まりと相まって、共産党軍のゲリラ戦に対抗するため日本軍による粛正作戦も過酷なものとなり、住民の虐殺や略奪(これを中国側は「三光政策」と呼んだ)の原因となる52。 3)東亜新秩序声明と汪兆銘政権の承認 a.東亜新秩序声明と汪兆銘の重慶離脱 38 年11 月3 日、近衛内閣は、いわゆる東亜新秩序声明(第2 次近衛声明)を発表し、日本が定義する東アジアの新たな国際秩序を「東亜新秩序」と呼び、日満華の共同による建設推進を「帝国不動の方針」と位置づけ、3 国が互恵平等の立場で経済協力や防共政策を進める、と宣言した。その一ヶ月前の38 年10 月初旬、アメリカ政府は長文の覚書で、盧溝橋事件以来アメリカ人が中国で被った差別待遇、市場独占化の現状を例示して、門戸開放原則・機会均等原則(9 カ国条約)の侵害に対し、速やかな改善を要求した。これに対し、宇垣に代わる有田八郎外相は、事変前の事態に適用されていた観念や原則は、東アジアの現状と将来の事態を律することはできない、と反論し、9 カ国条約などの国際原則を公式に否定していた53。東亜新秩序声明は欧米が築いた国際秩序の原則に代わる新たな原則を示したものであった。 この東亜新秩序声明は、国民政府が従来の抗日・容共政策と人的構成を改めるならば「敢テ之ヲ拒否スルモノニアラス」と述べ、「対手トセス」声明の修正を示唆していたが、和平の呼び掛けではなく、蒋政権の切り崩し工作の一環であった54。日本とともに東亜新秩序建設の一翼を担うはずの新中央政権の樹立工作は混迷を深め、反蒋勢力の結集による蒋政権の「屈服」が相変わらず難題であった。 しかし、このころ外交部亜洲司長・高宗武によって、汪兆銘を占領地区の統一中央政権の首班に据え、和平派を蒋政権から離脱させて蒋政権の外部で和平運動を展開し、蒋の下野と対日和平への 51 前掲、石島『中国抗日戦争史』131-33 頁。 52 戦史叢書『北支の治安戦(1)』494-97 頁、528-37 頁。 53 前掲『日本外交年表並主要年表(下)』393-99 頁。 54 前掲、戸部『ピース・フィーラー』306-09 頁。 14 転換を迫るという構想がもたらされる55。この高宗武工作には、陸軍の影佐禎昭大佐(参謀本部謀略課長)、今井武夫中佐を中心とし、中国側は高宗武のほか、汪の同志とみなされた周仏海(元国民党中央宣伝部副部長)や梅思平らが関与していた。 高宗武らは汪の命を受け、38 年11 月中旬から日本側代表と汪による挙事計画(汪の重慶からの脱出計画)や和平条件について会談に臨み、11 月20 日、日華協議記録に調印した。12 月初旬、汪一派は影佐らの手引きによって重慶を脱出し、昆明を経て12 月19 日ハノイに到着した。これに呼応して日本政府は12 月22 日、近衛首相談話(第3 次近衛声明)を発表した。その内容は日華協議記録の再現であり、日本側が中国の満州国承認、防共協定の締結と日本軍の防共駐屯、華北・内蒙における資源開発に対する便宜供与などを要求し、その代わりに、日本は戦費賠償を求めず、治外法権の撤廃、租界の還付を考慮する、というものであった。ただし、陸軍の要求で防共駐屯地域が「特定地点」とされ、撤兵条項も省かれた56。 汪は、12 月29 日、ハノイで対日和平を提唱し、国民党有力者の蒋政権からの離脱を期待する「艶電」を発表するが、和平条件について、速やかな全面的撤兵の必要性に加え、駐兵地域は「内蒙の付近に制限されなければならない」と強調した。つまり、第3 次近衛声明で抹消された部分の確認を求めたのである57。 一方、参謀本部内では、漢口作戦後を想定した講和条件の立案が進展し、38 年11 月に御前会議決定となった「日支新関係調整方針」は、政治形態の分治合作主義の採用、南京・上海・杭州三角地帯への治安駐兵、揚子江下流域の経済上の強度結合地帯化、日本人顧問の派遣など、第3 次近衛声明や日華協議記録にはない要求を列挙するものとなり、「21 か条要求を凌駕する苛酷なもの」となるが58、汪には翌39 年秋までは示されることはなかった。 39 年1 月、近衛首相は、汪兆銘の重慶脱出を見届け総辞職した。しかし、汪の重慶離脱に呼応する国民党有力者や反蒋軍閥は皆無であったため、政府や軍の指導者は汪による中央政権樹立に消極的となり、陸軍の一部には呉佩孚を首班とする新中央政府構想も再浮上する始末であった。相変わらず事変解決の展望は見出せなかった。 b.英ソの牽制―日独同盟と天津租界封鎖 事変収拾の方策が手詰まり状態となるなかで、ドイツの台頭によって流動化する欧州情勢を活用した対外方策も有力な手段となってくる。それは、対米関係の改善をはかりつつ、独伊との防共協定を対ソ・対英同盟として強化し、事変遂行や東亜新秩序建設の最大の妨害者と考えられた英ソを欧州において牽制するという構想であった59。38 年夏から陸軍の外交戦略の中心となったこの構想の実現のため、まず対独関係の強化がはかられる。 55 影佐禎昭「曾走路我記」(『現代史資料(13)』みすず書房、1966 年、349-98 頁)。西義顕『悲劇の証人-日華和平工作秘史』文献社、1962 年、195-98 頁。 56 前掲、劉『日中戦争下の外交』342-50 頁。前掲、戸部『ピース・フィーラー』310-25 頁。 57 前掲、劉『日中戦争下の外交』352-53 頁。 58 前掲、戸部『ピース・フィーラー』280-96 頁。前掲、臼井「日中戦争と軍部」83 頁。 59 38 年5 月、板垣陸相は五相会議で、「目下蒋を援けて居るものは『ソ』連と英なり本協定を結ぶことにより彼等を欧州に於て牽制せんが為なり」と述べている(『現代史資料(10)』みすず書房、1964 年、271 頁)。 15 ドイツ側も38 年2 月にリッベントロップが外相に就任し、極東政策は親中路線から親日路線へと転換しつつあった。38 年5 月の満州国承認、中国派遣の軍事顧問団の引揚げなどがそれを物語っていた60。日独の接近はすでに38 年初頭からリッベントロップと大島浩陸軍武官との間で始まり、それを7 月に知った東郷茂徳駐独大使は、日独同盟は日華事変の解決に役立つどころか欧州の戦争に巻き込まれる恐れがあるとして宇垣外相に交渉中止を要請するが効果はなかった。陸軍は、極東ソ連軍に対する地上兵力の劣勢を外交的に補うという観点から、対ソ軍事同盟を目標とした枢軸提携交渉の推進力となった。 しかし、ドイツ側の期待はソ連よりも、主要な敵であるイギリスを対象とした同盟であり、ソ連とともに英仏をも加えるか否かをめぐって日本の指導層は紛糾し、近衛内閣の総辞職(39 年1 月)の一因となる。平沼騏一郎新内閣となっても、同盟の対象をソ連に限るとする外務省と英仏も含めることを主張する陸軍との調整がままならず、その決着は39 年8 月23 日の独ソ不可侵条約によってもたらされる。すなわち、長引く日独交渉の裏側で、ソ連は欧州と極東との東西二正面戦争の危機を避けるため、極東では満ソ国境での日本軍との衝突事件(ノモンハン事件)を収拾する一方、欧州ではドイツに接近しており、その成果が独ソ条約であった。独ソ条約は日独間に進行していたソ連を目標とする軍事同盟交渉を頓挫させた。平沼首相は「欧州の天地は複雑怪奇」と述べて内閣を総辞職した。 陸軍の外交戦略実現のためのもう一つの機会は、39 年6 月の北支那方面軍による天津英仏租界の封鎖であった。親日派要人がイギリス租界で暗殺されるという事件をきっかけに、華北の金融や経済の中心であった天津英仏租界を封鎖した。租界封鎖は38 年夏から計画され、徐々に封鎖網を強化していた矢先であった。現地軍にとって租界封鎖は、租界の回収によるイギリス排除であったが、東京の陸軍にとっては、東亜新秩序政策と事変解決へのイギリスの同調を誘うことが狙いであった61。 (引用者注)イギリスの弱腰の原因は当時のヨーロッパ情勢参照。 この事件を重視したイギリス政府部内では対日制裁問題が再燃するが、チェンバレン首相は対日制裁よりも外交交渉による解決を選ぶ。激しい反英大衆運動のなか、東京における有田・クレーギー会談は、39 年7 月イギリスの譲歩と妥協のうちに了解が成立した。その内容は、(1)英国は中国における現実の事態(戦争状態の存在)を確認し、(2)中国における日本軍の生存及び治安維持行為について妨害しない、というものであった。(1)について、「ミュンヘンの宥和」にも似た対日宥和の姿勢に対し、中国は激しく非難した。他方、平沼首相は蒋政権への打撃となるとして高く評価した。しかしその直後のアメリカによる日米通商航海条約の破棄通告は、イギリスを奮い立たせた。日本の外交的勝利は減殺され、日英現地交渉におけるイギリスの立場を強いものとし、東京における協定は反古同然となる62。アメリカの強力な支持を得たイギリスが対日協調を選択する基盤はもはや存在しなかった。 60 1930 年代のドイツの親中路線について、田嶋信雄「解説 Ⅱ-一九三〇年代のドイツ外交と中国-」(石田勇治ほか『資料 ドイツ外交官の見た南京事件』大月書店、2001 年)309-24 頁。 61 永井和「日中戦争と日英対立」(古屋哲夫編『日中戦争史研究』吉川弘文館、1984 年)237-362 頁。 62 永井和「日英関係と軍部」(前掲、三宅編『昭和史の軍部と政治(2)』)184-87 頁。 16 4)汪政権の樹立と重慶和平工作 汪の重慶離脱は蒋政権の動揺を誘うことはなかったが、高宗武は汪を中心に南京に新中央政府を樹立する構想を推し進める。39 年5 月、汪は自ら中央政権樹立の決意を影佐らに語り63、汪政権樹立工作は本格化するものの、政府・軍部が一致して支持する気運にはなかった。 とくに、参謀本部は汪政権の実力を疑問視し、沢田茂参謀次長の着任時の10 月には、「本樹立工作を後援すべきや、将叉これを打切り、重慶との直接交渉により時局を処理すべきやの分岐点」にあった。そこで参謀本部は、汪政権の樹立は妨害しないが、陸軍の政戦略はこれに影響を受けないという協定を政府と締結したうえで、汪政権樹立を容認した64。こうして39 年11 月にはようやく汪政権樹立を前提とした国交調整交渉が開始され、交渉の基礎とされたのが、1 年前の「日支新関係調整方針」であった。汪はこの対日交渉で撤兵と駐兵権の要求に抵抗するものの、結局、日本側の苛酷な和平条件を受け入れ、40 年3 月、南京に新中央政府を樹立する。 この間、参謀本部は汪政権と蒋政権の合流を期待して、重慶との直接交渉の可能性を様々なルートを通じて探っていたが、40 年に入ると宋子良なる人物を通じた和平ルートが開拓される。この「桐工作」は、40 年6 月には蒋、汪と日本側代表者の三者による停戦会談の約束へと発展し、停戦会談の促進を目的の一つに発動されたのが6 月中旬の宜昌作戦であった。戦面の不拡大を固持する参謀本部は宜昌作戦を躊躇するが、攻撃後にただちに撤退することを条件に許可した。しかし、宜昌に進撃した第11 軍は撤退することはなかった。桐工作の進展情報から、蒋政権に和平会談に応ずるよう「最後の決定を迫る為」、宜昌の確保を命じられたからである。実際、宜昌占領は日中戦争全体を通じて重慶に最も強い圧迫感を与えたという65。 しかし、桐工作は汪政権の撹乱をねらった中国側の謀略の疑いが濃厚となり停戦和平への期待は急速に萎んでしまう。さらに、松岡外相のもとで、浙江財閥の巨頭、銭永銘を通じた和平工作も、汪政権の承認を遅らせつつ折衝がなされたが進展しなかった。こうして蒋政権との停戦の術をなくした日本政府は、40 年11 月末日、汪兆銘政権を南京国民政府として正式に承認し、同時に日華基本条約を締結した。この基本条約は前述の「日支新関係調整方針」を基礎としたもので、「善隣友好」や主権・領土の尊重、互恵平等を謳ってはいたが、蒙疆・華北への防共駐屯、治安維持のための日本軍の協力、蒙疆・華北の国防資源の共同開発と日本への優先的提供などが規定されていた。同日、汪政権は日満華共同宣言によって満州国を正式に承認した。基盤の脆弱な汪政権の承認と汪政権の満州国承認は、事変の解決に寄与するどころか、かえって蒋政権との対立関係を固定化することになり、停戦和平の道を閉ざす結果となる。 第3節 日中戦争と国際関係 1)列国の中国援助と対日経済制裁 63 戸部良一「汪兆銘のハノイ脱出をめぐって」(『外交史料館報』第19 号、2005 年9 月)。 64 沢田茂「記憶を辿りて」(沢田茂〈森松俊夫編〉『参謀次長沢田茂回想録』芙蓉書房、1982 年)168-69 頁。 65 波多野澄雄「南進への旋回:1940 年」(『アジア経済』26 巻5 号、1985 年5 月)30-33 頁。前掲『沢田茂回想録』57、177-78 頁。 17 盧溝橋事件の勃発によって逸早く中国援助に乗り出したのはソ連であった。ソ連は、37 年8 月には国民政府と不可侵条約を締結し、同時に武器・弾薬、航空機などを購入するための借款供与を約束し、直ちに実行に移していく。さらにソ連は義勇兵や軍事顧問団をも派遣し、その援助は、米英が援助を本格化させる1940 年までは中国にとってきわめて重要であった66。 アメリカの中国に対する直接的な援助はソ連より遅かったが、すでに盧溝橋事件の勃発以前から、銀の購入政策を続けていた。当初は為替安定資金に限定されていたが、使用条件も撤廃され、銀の売却で得た資金をもって軍需物資の購入に充てることができた。しかし、銀購入の先細りにより、直接的な援助が必要となり、38 年12 月、2500 万ドルの借款(輸出信用供与)協定が成立した。これを皮切りにアメリカは中国援助を本格化させ、40 年以降は最大の対中援助国となる67。 他方、イギリスは日本にとって、事変遂行と東亜新秩序建設の最大の妨害者とみなされていた。しかし、援蒋ルートとしての香港ルートやビルマ・ルートを経由する軍需物資は、ソ連からの物資援助に比べてきわめて少なかった。中国は再三、武器供給と借款を要請していたが、日本を刺激することを恐れて道義的支援にとどまっていた。イギリスの最初に着手した具体的支援策はビルマ・ルートの建設であり、38 年12 月に完成した。さらに、中国の要請に応えて借款供与に動き出し、39 年3 月には500 万ポンドの法幣安定資金を供与したが、この通貨安定資金も日本の激しい通貨工作のために、期待された効果をあげることはできなかった68。 英米は、38 年末から中国援助を本格化させるが、援助の本格化は対日方針の転換を意味したわけではなかった。実際、アメリカの経済制裁は航空機や関連部品の道義的禁輸、クレジット禁止措置といった、軽微の措置に終始する。39 年7 月の日米通商条約の廃棄通告も、その狙いは日本軍の天津租界封鎖問題で妥協を余儀なくされていたイギリスを牽制するためであり、さらに、対日禁輸を要求する議会に先手を打つ意味もあった。ハル国務長官の「日本と事を構えず、アジアから撤退せず、日本の行動に同意を与えず」という対日方針は維持される69。一方、イギリスは、東アジア問題で対米依存を深めていくが、欧州大戦の勃発後は、本国防衛が主要関心事となり、ますますその傾向を強める。 2)欧州大戦「不介入」と南進政策 平沼内閣が退陣し、阿部信行大将が組閣した直後の39 年9 月、第2 次欧州大戦が始まった。欧州大戦の勃発は東南アジアに植民地を有する英仏蘭の関心を欧州に集中させたという意味では日本にとって積極的な南進政策の好機であった。実際、海軍中堅層には大胆な南進国策への転換論が 66 ヤング(Arthur N. Young)によれば1939 年までにソ連が国民政府に供与したクレジットは英米の3 倍強に達していた(China and the helping hand, 1937-1945, Cambridge Harvard University Press, 1963,p.441.) 67 Ibid., pp.61-86. 206-07,441-42. 鈴木晟「アメリカの対応―戦争に至らざる手段の行使」(軍事史学会編『日中戦争の諸相』錦正社、1997 年)319-37 頁。 68 戸部良一「米英独ソ等の中国援助」(河野収編『近代日本戦争史 第3 編』、同台経済懇話会、1995年)340-44 頁。 69 Jonathan G. Utley, Going to war with Japan, 1937-1941(Knoxville The Univ. of Tennessee Press, 1985), pp.9-10. 18 起こるが、日中戦争の解決を最優先課題とする政府・軍部の共通意思とはなり得ず、阿部内閣は欧州大戦への「不介入」政策を採択し、欧州の交戦諸国のいずれにもコミットしないことを宣言した。 欧州大戦の勃発と不介入という条件のもとで、事変の有効な解決手段は英仏ソなど蒋政権に対する列国の物資援助ルートの遮断と考えられた。とくに広東占領による香港・広東ルートの遮断後は、仏印ルートが最大の輸送量を有するとみられた70。ハイフォンからハノイを経て昆明にいたるルートと、ハノイから竜州-南寧にいたる二つのルートのうち、後者の南寧ルートの封鎖作戦が広東占領の第21 軍を主体として実施される。21 軍は占領直後の海南島に集結したのち、11 月下旬に南寧を占領した。しかし、12 月に入って国民政府軍による大規模な冬季攻勢が始まり、21 軍は翌年まで苦戦を強いられ、占領が確定したのは40 年2 月であった。南寧には南支派遣軍の第5 師団が駐留したが、軍事的圧力のもとで実施された外交交渉でも仏印側は援蒋ルート遮断に応ずる態度を示さなかった 仏印問題の行き詰まりは、ドイツ軍の西欧電撃戦によって打開される。39 年秋以降、西部戦線でほとんど戦闘が行われない「奇妙な戦争」が続いたが、40 年春からドイツ軍は電撃戦によってベルギー、オランダを制圧し、6 月にはフランスが降伏した。ドイツの欧州席巻は難航していた援蒋ルート遮断問題を進展させる。イギリスは40 年6 月中旬、日本のビルマ・ルート閉鎖要求に応じて3 ヶ月間の閉鎖に同意し、仏印当局も仏印ルートによる援助物資の輸送を停止した。また、フランスの対独敗北は、遊兵化していた第5 師団を中国方面に転用するか、仏印領内に侵入させるか、という問題に解答を与えることになり、9 月末に北部仏印進駐が敢行される。 他方、日本国内では、ドイツとともに「世界新秩序」建設を担うべきである、とする観点から、朝野の「革新勢力」によって日独同盟論と南進論が声高に主張された。仏蘭がドイツの支配下に入り、イギリスも危うくなったという状況のなかで、いわば力の真空地帯となった東南アジアのヨーロッパ植民地に進出する好機と映った。 しかし、「不介入」政策を堅持する米内内閣は、南進にも日独同盟にも消極的とみなされ、陸軍や革新勢力から激しい批判に遭い、40 年7 月総辞職に追い込まれる。陸軍の強力な後押しで成立した第2 次近衛内閣が7 月下旬に定めた二つの国策(閣議決定「基本国策要綱」、大本営政府連絡会議決定「世界情勢ノ推移ニ伴フ時局処理要綱」)は、革新勢力の主張を大幅に取り入れたものであった。すなわち、世界は今や「歴史的一大転換期」にさしかかっているとの認識から、日本の「国是」は、「大東亜新秩序」の建設にあるとし、国内政治全般の刷新、自給自足経済の確立、国防国家体制の確立などを国策に掲げた。8 月初旬には新入閣した松岡洋右外相が公式に「大東亜共栄圏の建設」という言葉を用い、大東亜共栄圏の範囲は、日満華三国の東アジアだけではなく、東南アジアを含む地域であると述べた。 一方、「世界情勢ノ推移ニ伴フ時局処理要綱」は、6 月下旬から、ドイツによる欧州制圧と、米内内閣に代わる新内閣の出現を前提として、参謀本部を中心に立案が進んだものであるが、その柱は仏蘭に続くイギリス本国の敗北を想定した極東における英領攻略であった。しかし、欧州戦線は 70 立川京一『第二次世界大戦とフランス領インドシナ』彩流社、2000 年、28 頁。なお、仏印問題につ いては主に本書による。 19 イギリスの必死の防衛戦によって長期化の様相となり、ドイツに呼応して極東の香港やシンガポールを攻撃するという事態は遠のいていく。 ところで、上記「時局処理要綱」において、武力南進政策と日中戦争の収拾方策との関係は明瞭ではなかったが、それは、ドイツの欧州攻略と、日本の武力南進とを連動させることによって、事変を有利に解決できるという漠然とした期待の故であった。例えば、沢田参謀次長は40 年春頃から、「支那事変は欧州戦争と其の運命を共にすべく、・・・為し得れば南方作戦を敢行することが支那事変を有利に解決する途にあらずや」71と部内に説いていたが、こうした考え方が説得力を増してくる。事変の解決は、もはや日中の問題としてではなく、欧州の国際関係の変動と結びつけられていく。実際、汪政権承認後の収拾方策を定めた40 年11 月の「支那事変処理要綱」(御前会議決定)は、既占領地の安定確保を中国政策の基本とすることを確認するのみであった。 こうして、欧州列国との衝突を覚悟した武力南進による自給自足圏確立―長期自給体制の確立が陸軍の事変解決の一手段となる。しかし、英米の結束強化とABCD 対日包囲陣が整ってくるなかでは、武力による東南アジア侵攻は当面避けねばならず、まずは蘭印、仏印等に対する外交交渉による資源獲得や影響力拡大が優先された。しかし、これらの平和的・外交的手段による南進は、蘭印やタイへの英米の支援や牽制も作用して期待通りには進まなかった。 3)日独伊三国同盟と日ソ中立条約 72 三国同盟構想は、独伊との政治的結束強化という「時局処理要綱」の対外施策に沿ったものであったが、東南アジアの資源地帯にドイツの影響力が及ぶのを避けるという意味が含まれ、アジアにおける日本の覇権と欧州におけるドイツの覇権の相互承認が基本的内容であった。問題は、対英戦争中のドイツにどの程度協力を約束するかにあった。とくに陸軍案はシンガポール攻撃などドイツから対英参戦を要求された場合には「原則的にこれに応ずる」ことを約束するものであった。しかし、松岡外相は同盟の対象としてイギリスとともにアメリカを加えた対英米軍事同盟案へと変質させようとし、とくに海軍や外務省の強い異論に直面した。松岡の意図は同盟の威力によって対米戦争を回避することにあり、ドイツの日独同盟に対する期待もアメリカの欧州大戦への参戦抑止にあった。両者は欧州の戦争とアジアの紛争へのアメリカの介入を牽制することに同盟の主眼があることについて了解した。海軍は最後まで同盟に反対するものの、対英米参戦問題について交換公文等で自主的判断の余地を残すことで賛成に回る。こうして9 月下旬、日独伊三国同盟が調印され、松岡は同盟の意義について日米戦争の防止がそのねらいであることを力説したが、英米の援蒋政策を強化させる結果をもたらすのみであった。 ところで三国同盟の成立過程では、日独伊同盟にソ連を誘導して「四国同盟」とするという構想が陸軍から提起されていた。ドイツの対ソ影響力を活用して日ソ国交調整を図ることを念頭においていた松岡外相がその推進に積極的となる。元来、日ソ間の国交調整はノモンハン事件の解決(39 71 前掲、沢田「記憶を辿りて」172 頁。 72 細谷千博「三国同盟と日ソ中立条約」(日本国際政治学会編『太平洋戦争への道 第5 巻』朝日新聞社、1987 年新装版、159-331 頁)などによる。 20 年9 月)以来、ソ連の重慶政権に対する支援を抑制するという観点から追及されてきたが、40 年夏の南進政策の浮上によって、南進に備えた北方の安全確保という観点が加わり、さらに重要な懸案となっていた。 しかし、対ソ交渉は難航した。とくに陸軍は独ソ不可侵条約に匹敵する関係の設定を望んだが、具体的代償に乏しく、40 年秋からの不可侵条約の打診はことごとくソ連の拒否に遭う。そこで松岡は、41 年3 月から「四国同盟案」を抱いてモスクワ、ベルリンを訪問し4 月にはスターリンとの間で日ソ中立条約に調印した。日ソ中立条約の成立は、松岡から見れば日独伊ソの「四国同盟」の成立であったが、すでにヒトラーはこの時点までに対ソ攻撃を決定し、独ソ関係の現実は松岡の主観的判断を越えた厳しいものになっていた。 4)日米交渉と中国問題 a.事変解決と対米交渉 事変解決のため、最後に残された外交的手段はアメリカによる和平斡旋を期待して直接、対米交渉に臨むことであり、そのための準備工作が日米民間人によって40 年秋から開始される。この対米工作には陸軍省軍務局長・武藤章、野村吉三郎駐米大使、ハル国務長官らも関与し、やがて41年4 月中旬には、日米会談のための非公式的な基礎案として「日米諒解案」が日本政府に伝えられる73。 諒解案は三国同盟の実質的な無力化を求める一方、一定の条件の下での事変の和平斡旋や東南アジアの資源獲得に対する日米協力を掲げており、日本側は政府も軍部もこれを歓迎した。ただし、諒解案は和平斡旋の前提として、「ハル4 原則」(領土保全と主権尊重、内政不干渉、機会均等、平和的手段によらざる限り太平洋の現状不変更)の受諾を求めていたが、日本側はこの諸原則を重視しなかった74。 日米交渉における主要な争点は、三国同盟に規定された参戦義務の適用問題、そしてアメリカの仲介による日中戦争の解決であった。前者は条約の解釈と実行の問題として妥協の道が開かれていくが、日本が最も期待した日中戦争の和平斡旋について、アメリカは単なる仲介者ではなく、その前提は、「ハル4 原則」を日本が受諾することであり、とくに、通商上の門戸開放、機会均等原則が無条件に中国に適用されることを重視した。一方、日本はこの原則の修正を要求し、日本軍の駐兵の継続によってそれを保証させようとした。 とくに、日ソ中立条約や三国同盟という外交的成果をもって有利な対米交渉を進めようとしていた松岡外相は、三国同盟に関する日本の義務や日中戦争収拾に関する和平条件の明確化という観点から諒解案を大幅に修正することになる。松岡の意見を容れた日本側の対案(5 月12 日対米提案) 73 塩崎弘明『日米英戦争への岐路』山川出版社、1984 年、第2 部第3・4 章。なお、以後の日米交渉の経緯は、主に外務省編『日本外交文書・日米交渉―1941 年(上)・(下)』(外務省、1990 年)による。 74 野村大使は「ハル4 原則」は会談に臨む前提条件であることを日本政府に報告しなかった(須藤眞志『日米開戦外交の研究』慶應通信、1986 年、60 頁)。ハル長官は、4 原則の承認を前提に日本政府が「諒解案」を正式に提案すれば,それを基礎に日米会談に入ることを想定していた(細谷千博「『日米交渉』及びその記録文書をめぐる若干の問題点について」『外交史料館報』第2 号、1989 年3 月)。 21 の日中戦争に関する部分は、アメリカは、40 年11 月に汪兆銘政権との間で締結した日華基本条約と日満華共同宣言の原則を「了承」した上で、蒋政権に対して和平を勧告すべし、と要求していた。日華基本条約は、当時の公表部分でも、共同防共のための日本軍の蒙疆、華北への駐屯、治安維持のための駐屯、蒙疆・華北の国防資源開発に関する協力などを含み、日満華共同宣言は中国による満州国の主権と領土尊重を確認していた。 これに対するアメリカの回答(6 月21 日米国案)は、汪政権の否認、満州の中国への復帰、日本軍の無条件撤兵、防共駐兵の否認、通商上の無差別待遇などであり、日本の提案をほとんど否認していた。その後の交渉においてもアメリカはこれらの条件を後退させることはなかった。この回答に接した松岡は日本を「弱国・属国扱いするもの」と激怒し、交渉打切りを主張するが、近衛首相は松岡の更迭によって交渉の継続を図った。 b.中国駐兵問題と破局 6 月23 日の独ソ戦争の勃発は、ソ連が明確に反枢軸陣営の一員となったことを意味し、松岡外相の抱く日独伊ソの「四国同盟」構想を破綻させるものであった。アメリカは対ソ援助をさらに強化させ、また、中国共産党の内外戦略を変化させる。すなわち中共は、世界大戦の性格は、帝国主義諸国間の戦争であるとする「帝国主義戦争論」を後退させ、日独伊のファシズムに反対する「反ファシズム統一戦線論」を復活させる。国内では抗日民族統一戦線と国共合作をより重視するようになり、皖南事件で悪化した国共関係は修復され、第2 次長沙会戦では、国民党軍と共産党軍との間に一定の作戦協力も実現している75。 日本では陸軍部内に「北方戦争論」が浮上し、参謀本部や松岡外相はドイツのソ連攻撃に呼応した対ソ攻撃を主張した。南進論との論争の末、国策としては「南北併進」に落ち着いたが、対ソ攻撃は独ソ戦争がドイツに有利に展開した場合とされ、その準備のため関東軍の増強が図られるが、シベリアの気候的条件に加え、独ソ戦が早期に終結する見込はなくなり、8 月初旬に中止される76。 一方、南進政策は、仏印との軍事的結合を強化するとの既定方針に基づき、7 月下旬、南部仏印進駐が断行される。資源供給のための交渉が不調に終った蘭印を威圧するという効果や、南部仏印に航空基地を設定するという目的も含まれていた。南部仏印進駐に対し、アメリカは在米日本資産の凍結と石油の全面禁輸という最高度の経済制裁で応え、英蘭もこれに倣った。しかし、日米ともに戦争を決意したのではなかった。アメリカの最大の脅威は依然としてドイツであり、米独関係は極度に悪化し、6 月には独伊の在米資産はすでに凍結されていた。アメリカの対日強硬措置は、戦わずして日本を屈服させ、さらなる南進を抑止するためであった77。 他方、日本側からすれば、最高度の経済制裁は米英蘭中のABCD 包囲陣が、国防上耐え難いものとなったことを意味していたが、政府・軍部の指導者はなおも対米戦の回避の可能性を追及した。その一つが近衛首相とローズヴェルト大統領との直接会談構想であった。この頂上会談のために改めて対米提案が検討された。その作成過程では、外務省は中国からの速やかな撤兵という原則のも 75 前掲、石島『中国抗日戦争史』137 頁。 76 軍事史学会編『大本営陸軍部戦争指導班 機密戦争日誌(上)』錦正社、1998 年、144-45 頁(1941年8 月9 日の条)。 77 J. Utley, Going to war with Japan, pp.151-55. 22 とで、駐兵地域や駐兵期間の限定を盛り込もうとするが、陸軍はとくに蒙疆・華北における駐兵に固執した。結局、9 月25 日の対米提案は、通商上の門戸開放・機会均等については譲歩し、経済活動の自由を原則として認める方針を示していたが、駐兵について譲歩することはなかった。 10 月2 日のアメリカの回答は、日本の提案を否認するとともに、首脳会談についても、その前提として「根本的な諸問題について討議の進展」が必要である、として否定的であった。それでも近衛首相は、戦争回避の立場から、部分的撤兵案によって妥結に持ち込もうとするが、陸軍の立場を代表する東条英機陸相は撤兵に強硬に反対して内閣は崩壊する。10 月18 日に成立した東条内閣は、天皇の指示を受け、「白紙」の立場から非戦の可能性を追求した。11 月5 日の御前会議は、11月末を限度に対米交渉と作戦準備を併進させ、妥結しない場合の武力発動は12 月初旬と決定した。同時に、最後の交渉案として「甲案」「乙案」が了承された。「乙案」は、アメリカの対日石油供給の約束と引きかえに、南部仏印の日本軍を北部仏印に移駐させ、当面の危機を回避しようとする暫定協定案であり、11 月20 日に米政府に提示される。 アメリカ政府でも暫定協定案の検討が進み、「乙案」に近い内容の暫定協定案が用意され、英蘭と中国(重慶政権)に内示される。しかし、日本との苦しい戦いを強いられていた蒋介石の期待はアメリカの対日参戦であり、暫定協定による日米の妥協は、さらなる対日戦争の長期化を意味した。中国からみれば、アメリカは中国の犠牲において日本を宥和しているのであった。イギリスもまた暫定協定案の提出に消極的であり、アメリカの中国問題における譲歩が、中国政府や国民の士気に及ぼす影響を恐れていた。チャーチルの懸念は中国の崩壊がそれだけ日本の東南アジアへの攻撃を容易にしてしまうことにあった78。 かくして、「乙案」の拒否とともに、暫定協定案も取り下げられ、11 月26 日、いわゆるハル・ノートという形で対日回答がなされた。ハル・ノートは中国全土および仏印全土からの撤兵、重慶政権以外のすべての政権の否認、という要求を含み、日本をいわば満州事変以前の状態に引き戻すに等しかった。これを事実上の最後通牒と受けとめた日本政府は12 月1 日、御前会議において最終的に対英米開戦を決定した。 陸軍省軍務局員として、対米提案における中国問題の起草を担当した石井秋穂中佐によれば、蒙疆・華北への駐兵に固執したのは、対米交渉の破綻が目的ではなく、アメリカは華北の共産化の危機を理解するであろう、という期待の故であった79。中国の共産化と対米戦争とは陸軍が最も避けたかった事態であり、皮肉にも、中国の共産化を防ぐために駐兵に固執したことが、対米開戦を招くことになったのである。 他方、アメリカは、日米交渉の最終段階では、太平洋の安定のためには中国の主権を侵すような条件は承認できず、中国問題は英蘭中等との多国間協議が必要である、という立場をより鮮明にするようになっていた。もはや日本軍の駐兵問題は二国間の問題ではなく、太平洋の安定と不可分の問題となっていたのである。 78 U. S. Dept. of State, Foreign Relations of the United States,1941 Ⅳ,pp. 651-54,660-61,665-67.アントニー・ベスト(相澤淳訳)「日中戦争と日英関係、1937-1941 年」(前掲『日中戦争の諸相』)354頁。 79 波多野澄雄『幕僚たちの真珠湾』朝日新聞社、1991 年、143 頁。 第1期「日中歴史共同研究」報告書 目次 日中歴史共同研究
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チハたんばんじゃーい∩(・ω・)∩ -- 名無しさん (2009-04-04 23 29 12) チハたんばんじゃーい∩(・ω・)∩ -- 名無しさん (2009-04-26 18 03 59) チハたんを小銃で撃たないでください!!貫通しますから。 -- 名無しさん (2009-04-26 20 07 34) 本当? -- 名無しさん (2009-06-05 14 20 14) ゲームじゃないけど、WW2では小銃でも角度が良ければチハたんの側面を貫通するらしい。 -- 名無しさん (2009-06-05 18 43 29) 上の日本語修正事実では当たり所悪ければ小経口でも貫通する -- 名無しさん (2009-08-02 21 16 52) こんな物役立たずの糞戦車だ -- タ弾 (2009-08-09 11 51 14) ↑こんな素晴らしい歩兵支援用戦車に何を言うんだ -- (2009-08-09 14 50 54) ↑まあチハですから・・・ -- 名無しさん (2009-08-14 10 19 03) ↑↑↑警告するお前はチハタソを侮辱した罪として銃殺の刑を下す -- 東条英機 (2009-08-24 23 17 29) ↑お前は絞首刑な。 -- マッカーサー (2009-08-24 23 22 59) チヘの方が数十倍使える -- 名無しさん (2009-08-25 22 33 56) シャーマンに踏みつぶされそー -- 名無しさん (2009-08-26 00 05 06) みんなチハが弱いという事実をうけとめたくないんだよ -- 名無しさん (2009-08-27 14 57 36) みんな 画像をよく見ろ 右上にチハたんのキャラがいるぞ! -- 名無しさん (2009-08-27 20 18 35) 結論チハは動く鉄くず -- 名無しさん (2009-09-23 13 07 46) ラーテとチハが戦ったらどうなるかな... -- 名無しさん (2009-10-02 18 51 09) チハタソがラーテの中に入って暴れて完全勝利 -- 名無しさん (2009-10-30 23 06 32) ↑入れないよ -- 名無しさん (2009-10-31 11 09 25) ↑ハ号ならやってくれる -- 名無しさん (2009-10-31 13 44 22) ↑入るところもない -- 名無しさん (2009-11-05 11 39 23) これ雑魚すぎるww -- 名無しさん (2009-11-13 02 49 06) ↑チハたんをバカにしないでくれ・・・。ファンが怒る。 -- 名無しさん (2009-11-13 17 29 07) まあ走りまくったら勝てた… -- 名無しさん (2009-11-25 17 36 46) と言うより一回も死ななかった -- 名無しさん (2009-12-01 16 46 51) チハたんばんじゃーい∩(・ω・)∩ -- チハ坊 (2009-12-21 21 20 35) 今気づいたが、右上にチハ坊がいるww -- 名無しさん (2009-12-29 15 37 11) よく聞けおまいら!0.4バージョンで、ついにシャーマンに対抗できる弾を搭載したらしいぞ!タ弾ってやつ -- 名無しさん (2010-02-11 22 09 37) こ れ で 勝 つ る -- 名無しさん (2010-02-18 17 07 50) タ弾がはいったからってシャーマンと対等にたたかえるわけじゃねーんだよ馬鹿野郎 -- 名無しさん (2010-02-24 15 50 10) ラーテの話に戻りますが、チハでもその機動力をいかせばラーテをボインに・・・ -- 名無しさん (2010-03-12 23 44 17) たぶん戦い方をいろいろ考えてみると多分初期チハでもUS軍と対等に戦えると思います・・・ -- 名無しさん (2010-03-12 23 49 02) しょぼい -- 名無しさん (2010-03-29 20 42 55) 一応いっとくと小銃貫通は薄い箇所を接射しても無理だからな -- 名無しさん (2010-03-31 10 05 47) 弱いと言う事は確か -- 名無しさん (2010-04-02 13 00 44) 脆い ダサイ 弱いの三拍子がそろった戦車でも憎めない -- 名無しさん (2010-04-02 13 08 09) ↑ダサくはないよ!! -- 名無しさん (2010-06-04 20 16 55) ↑同意 -- 名無しさん (2010-06-08 19 07 09) 完成当時は最新鋭だったが、戦車の進化が早すぎて取り残された。 -- 名無しさん (2010-06-13 09 13 32) チハは機動力と火力でM4にまさります -- 名無しまみれですね (2010-08-15 18 04 50) クルセイダーとかクロムウェルとかには勝てるだろうか? -- 名無しさん (2010-08-15 21 01 14) ↑どう考えてもぼろ負けするだろ・・・ -- 名無しさん (2010-08-15 23 03 47) ・・・奇襲するしか無いのですか? -- 名無しさん (2010-08-16 11 58 09) チハはソ連のBT戦車シリーズには一応対抗できる性能を持っている。なぜなら、ノモンハン事件において日ソ両軍が激突したとき日本軍のチハは両軍の中で一番装甲が厚かった。ただソ連軍の45mm対戦車砲には容易に貫通されたもののチハの57mm短加農砲はBT戦車に榴弾の集中射撃で撃破しソ連軍戦車部隊に対してかなり善戦している。 -- 名無しさん (2010-08-22 00 20 25) なんだろ・・・ 対空砲を戦車に撃ってるような・・・ -- ぱすたー (2010-08-31 20 39 28) 動く鉄くず -- 名無しさん (2010-10-11 00 13 00) シャーマンやT34に遭遇したらとにかく逃げようね。それか上からのしかかる。 -- ぱすたー (2010-10-12 22 28 38) っか・・・もともとチハは歩兵支援用なんですよね。 -- ぱすたー (2010-10-17 16 23 59) まあいいじゃないか、人間でいえば残念なイケメンだと思えば -- 名無しさん (2010-10-22 01 47 59) チハは歩兵と行動するべし。戦車は歩兵で片付けましょう。 -- ぱすたー (2010-10-24 14 24 33) ないよりはましですね(^◇^;) -- 名無しさん (2010-11-02 22 33 27) HEATが使えるものもあるので、ハゴよりはマシかな。 -- 名無しさん (2011-09-02 23 59 03) 心無しかハゴより弱い。 対戦能力が絶望的過ぎる。スチュアートを見て側面装甲叩いたら 貫通できずに屠られたorz -- (人民委員部准尉) 2012-08-03 14 38 12 チハタンバンジャーイψ(`∇´)ψ -- (名無しさん) 2013-02-22 19 22 06 ─┬=====┬─┬─┬ ヽ┴-----┴ 、/_ / ==||:|: 乃 :|: 「r-┴──o ____________ |:|:__ :|: ||--┬┘ |ミ///ロ-D/ ~~|ミ|丘百~((==___ . └┼-┴─┴───┴──┐~~'-ゝ-┤ (*1)三)──)三) ゝ(◎)(◎∩◎)(◎)(∩)ノ三ノ──ノ三ノ // | | ミ //Λ_Λ | | | |( ´Д`)// うるせえ、チハぶつけんぞ! \ | | lヽ,,lヽ ミ | ( ) やめて | と、 ゙i 装甲へこんじゃう -- (名無しさん) 2016-06-19 14 29 16 紙装甲チハでも占守島では守った神様 -- (名無しさん) 2022-06-29 19 06 19
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南京大虐殺 南京大虐殺(なんきんだいぎゃくさつ)とは、日中全面戦争?初期の1937年12月、日本軍が、中華民国?の首都であった南京市を攻略する過程において行われた暴虐事件。多数の市民・兵士が暴行・殺害された他、強姦・略奪・放火などが大規模に行われたという。 南京攻略戦 ▼上海戦 1937年7月7日の盧溝橋事件?に続き、8月9日には第二次上海事変?により上海戦が始まった。 中国にとって上海は首都南京の窓口にあたる位置にあり、上海の陥落は首都の危機と直結していた為、その防衛には力を入れていた。そのため、日中関係が悪化する以前から、部隊を増員し、防衛施設の拡充を図るなどの準備に余念がなかった。上海戦に投入された中国軍は70余個師に達した。 一方、日本軍は、戦闘が始まった当初、海軍陸戦隊約5000名の兵力しかなかった。その後、数度にわたり兵力を投入し続けた結果、6個師団を投入することになった。 当初、兵員数が圧倒的に多かった中国軍は、兵員の戦意の高さもあいまって日本軍と互角に戦うことが出来た。日本軍は、兵員の数的な不利、戦術の基本に反する戦力の逐次投入、白兵戦を重視する伝統的戦法を優先するなどの原因により、苦戦を強いられた。しかし、日本軍の数度にわたる兵力の投入により、戦況は中国軍の不利に移行していった。 その結果、11月8日までの約3ヶ月間で、日本軍は4万人を越える死傷者を出すことになったが、一方で、中国軍は戦死者25万とも言われる大きな損害を出すことになる。 ▼杭州湾・白茆口の上陸による中国軍の撤退 参謀本部?は、膠着した戦況を打開するために、柳川平助?大将を司令官とする第10軍?(約3個師団半)を編成し、上海南方の杭州湾金山衛に上陸させる決定、11月8日、第10軍は金山衛に上陸した。また、華北で行動していた第16師団?と藤重支隊?を上海派遣軍?に編入させ、11月13日に、上海北方の白茆口に上陸させた。これらの作戦行動に伴い、11月7日には上海派遣軍と第10軍を統一指揮する上級司令部として、中支那方面軍?の編合が発令された。 11月8日に上海南方の杭州湾金山衛に上陸した第10軍により、背後を脅かされることとなった中国軍は、11月9日に撤退を開始した。11月13日に上海北方の白茆口に上陸した第16師団と藤重支隊により、さらに退路を断たれる危険性が生じた中国軍は、総崩れの状況で敗走することになった。 ▼制令線 中支那方面軍の任務は上海付近の敵の掃滅に限定されていた為、作戦地域は「蘇州、嘉興ヲ連ヌル線以東トス」として制令線が定められていた。しかし、上海派遣軍と第10軍は、ともにこの制令線を無視して敗走する中国軍の追撃を開始した。 大本営?は11月24日に蘇州・嘉興以東とする制令線を撤廃し、11月25日、中支那方面軍は無錫・湖州を連ねる線をもって制令線を定めた。しかし、この制令線もまた、第一線部隊の前進を制するものとはならなかった。 ▼日本軍の追撃戦 ▼各軍の行動 ▼南京攻略命令 ▼南京防衛線 ▼城壁の戦い ▼陥落 事件の概要 市民殺害 兵士殺害 強かん 略奪・放火 事件の原因 関連項目 関連リンク ※WIKIPEDIA「南京大虐殺」
https://w.atwiki.jp/pipopipo555jp/pages/2582.html
日中歴史共同研究 第1期「日中歴史共同研究」報告書 目次 第2部 戦争の時代 第2章 日中戦争-日本軍の侵略と中国の抗戦 日中戦争―日本軍の侵略と中国の抗戦 波多野澄雄・庄司潤一郎<その1> 波多野澄雄:筑波大学大学院人文社会科学研究科教授(委員会委員) 庄司潤一郎:防衛省防衛研究所戦史部第1 戦史研究室長(委員会委員) http //www.mofa.go.jp/mofaj/area/china/pdfs/rekishi_kk_j-2.pdf 目次 日中戦争―日本軍の侵略と中国の抗戦 波多野澄雄・庄司潤一郎<その1>はじめに 第1 節 盧溝橋事件の発生と全面戦争への拡大1)盧溝橋事件の勃発と拡大要因 2)関東軍の積極介入と北支那方面軍の南下 3)上海派兵 4)南京攻略と南京虐殺事件 5)和平をめぐる葛藤-トラウトマン工作32と9ヶ国条約会議 第2節 戦線拡大と持久戦1)事変解決策の混迷a.徐州作戦と「新興支那政権」 b.宇垣工作と日英協力構想 日中戦争―日本軍の侵略と中国の抗戦 波多野澄雄・庄司潤一郎<その2> 第2節 戦線拡大と持久戦2)「長期持久戦」への転換-対峙段階の戦争a.武漢・広東攻略と長期持久体制 b.中国の抵抗 3)東亜新秩序声明と汪兆銘政権の承認a.東亜新秩序声明と汪兆銘の重慶離脱 b.英ソの牽制―日独同盟と天津租界封鎖 4)汪政権の樹立と重慶和平工作 第3節 日中戦争と国際関係1)列国の中国援助と対日経済制裁 2)欧州大戦「不介入」と南進政策 3)日独伊三国同盟と日ソ中立条約 72 4)日米交渉と中国問題a.事変解決と対米交渉 b.中国駐兵問題と破局 1 はじめに 1937 年7 月に勃発した日中間の衝突事件は、全面戦争に発展したにもかかわらず、双方とも41年の太平洋戦争の開始まで宣戦布告を避けたという特徴がある。主な理由は、宣戦布告がアメリカ中立法の適用を受け、経済制裁と同様の効果をもたらす恐れがあったからである。さらに日本では、「戦争」への格上げは事態の早期収拾の妨げとなる、と判断された。日中紛争の長期化は、本来の敵と想定されたソ連や英米との対決に備えるためにも避けねばならなかった。こうして日本は、この戦争を当初「北支事変」と呼び、戦火が拡大した37 年9 月以降は「支那事変」と正式に呼称した。 もう一つの特徴は、全期間に及ぶ無数の和平工作が様々なルートで日本側から試みられたことである。それは早期収拾への期待と焦慮の反映でもあった。しかし、早期収拾への焦慮とは裏腹に戦闘は8 年を越え、宣戦布告による戦争以上に熾烈なものとなり、両国国民に大きな負担と犠牲を強いることになった。とくに戦場となった中国に深い傷跡を遺したが、その原因の大半は日本側が作り出したものといわなければならない。 第1 節 盧溝橋事件の発生と全面戦争への拡大 1)盧溝橋事件の勃発と拡大要因 1937年の華北は、宋哲元を委員長とする冀察政務委員会が河北、チャハル両省を統括していた。この冀察政権は国民政府がいわば「緩衝機関」として設置したという成立事情から、冀東政権とは性格が異なり、支那駐屯軍にはその親日姿勢に不信感を抱く者も少なくなかった。他方、支那駐屯軍による頻繁な夜間演習は宋哲元の率いる第29軍には「挑発行動」と映り、必要以上に冀察政権側の警戒心を煽っていた。 7 月7 日夕刻、豊台駐屯の支那駐屯歩兵第1 連隊第3 大隊第8 中隊は、宛平県城北側の永定河にかかる盧溝橋畔でこの日も夜間演習を行っていた。午後10 時40 分頃左岸堤防陣地の方角から二度の銃撃を受けた。清水節郎中隊長は伝令を送って豊台の大隊本部に報告した。一木清直大隊長は警備召集によって約500 名の部隊を宛平県城近くの一文字山に出動させた。翌8 日午前3 時半頃に一文字山に到着した部隊は竜王廟方面で銃声を確認したため、北平の牟田口廉也連隊長に現状を報告すると牟田口は戦闘を命令した。一木大隊は5 時に攻撃命令を発して戦闘態勢をとる一方、堤防陣地の中国軍を包囲攻撃するため第8 中隊を前進させた。前進する第8 中隊と中国軍との間に戦闘が始まると、一木は5 時半に総攻撃を命じた。この間、二度の銃撃直後から同中隊の兵士一名が行方不明となり、まもなく無事に帰隊したが、その情報はかなり後まで大隊本部などに報告されず、事態を緊迫化させる一因となった。 現地で断続的な交戦が続く中、7 月8 日、参謀本部作戦部長の石原莞爾が療養中の今井清次長にかわって参謀総長に説明し、参謀総長名で事件の拡大を防止するため、「更ニ進ンテ兵力ヲ行使スルコトヲ避クヘシ」と支那駐屯軍司令官に命令した。翌9 日、参謀次長名で、中国軍の永定河左岸 2 駐屯の禁止、謝罪と責任者の処分、抗日系団体の取締り等の停戦条件が指示された。停戦交渉は、北平特務機関と第29 軍代表との間で実施され、7 月11 日、29 軍は(1)陳謝と責任者の処分、(2)宛平県城、龍王廟に軍を配置しない、(3)抗日団体の取締り等の要求を受け入れ、11 日午後8 時に現地協定が成立した 1。 一方、近衛文麿内閣は8日の臨時閣議で事件の「不拡大」を決定したが、不拡大は華北への動員派兵の抑制を意味しなかった。翌9日の臨時閣議で杉山元陸相が内地3個師団派遣の必要を提案した際には、他の閣僚の反対で取りやめとなる。しかし、7月10日に現地龍王廟で再度の衝突が起こると、翌11日の閣議は不拡大・現地解決の方針とともに、陸軍省部の要望を容れ、3個師団の派遣を承認した(実際の派兵は留保)。同日午後6時過ぎの派兵声明は、「今次事件ハ全ク支那側ノ計画的武力的抗日ナルコト最早疑ノ余地ナシ」と断定しつつも、「局面不拡大ノ為平和的折衝ノ望ヲ捨テス」と述べていた 2。 近衛首相は同じ11日夜には言論界、政財界の指導者を集め、国民政府に反省を促すために「関東軍、朝鮮軍それに内地から相当の兵力を出すことはこの際已むを得ぬ」として派兵への全面協力を求めた。近衛は事態の拡大を望んではいなかったが、派兵という強硬姿勢を示すならば「中国側は折れて出る」はずであり、事件は短期間で片付くと信じていた 3。いずれにしても、派兵決定とその公表は同時に進行していた現地の停戦努力を無視する行動であり、その後の現地交渉を困難なものとした 4。 一方、中国の側でも、抗日気運の高まりのなか、妥協的な停戦を受け入れる可能性は狭まっていく。中国共産党は、事件翌日の8 日には、「抗日自衛戦争」の発動と国共合作を要求する通電を全国に発していた。他方、国民政府軍事委員会委員長・蒋介石は、対日抗戦のための内外体制の整備が途上にあったことから、当面事件の平和的解決に重きを置いていた。したがって、7 月17 日の廬山談話(19 日公表)では、外交的解決の期待を込めつつも、事件の解決が不可能となるような「最後の関頭」に立ち至ったときは必ず抗戦する、と決意を述べた 5。 この間、天津では事態解決の努力が継続され、7 月19 日には現地軍間で、中国側が日本側条件を呑む形で排日言動の取締まりに関する実施条項(停戦細目協定)が調印される 6。駐屯軍は21 日、 1 盧溝橋事件の経過については、以下の文献による。秦郁彦『盧溝橋事件の研究』東京大学出版会、1996年、138-211 頁。防衛研修所戦史室『戦史叢書 支那事変陸軍作戦(1)』朝雲新聞社、1975 年〔以下、「戦史叢書」〕、145-51 頁。安井三吉『盧溝橋事件』研文出版、1993 年、141-257 頁。寺平忠輔『盧溝橋事件』読売新聞社、1970 年、54-125 頁。外務省編『外務省執務報告・東亜局 第三巻 昭和十二年(1)』クレス出版、1993 年、第1・2 章。 2 外務省編『日本外交年表並主要文書(下)』原書房、1955 年、366 頁。 3 庄司潤一郎「日中戦争の勃発と近衛文麿の対応」(『新防衛論集』第15 巻3 号、1988 年)78-81 頁。臼井勝美『日中外交史研究』吉川弘文館、1998 年、212-42 頁。 4 天津特務機関員として第29 軍と停戦協議にあたった今井武夫は、「日華双方が局地解決に努力中の、極めて微妙な時機だっただけに、この廟議決定はわれわれ現地の日本側代表の行動を困難にすると共に、他方中国側にも連鎖反応を惹起して態度を硬化させ、両方面に破局的影響を及ぼした」と回想している(今井武夫『支那事変の回想』みすず書房、1964 年、31-32 頁)。 5 日本国際問題研究所編『中国共産党史資料集・第8 巻』勁草書房、1974 年、資料75(434-35 頁) 、84(468-71 頁)。石島紀之『中国抗日戦争史』青木書店、1984 年、59-60 頁。 6 香月清司司令官は「之で現地交渉は完全に纏ったことになったのでありまして、従ひまして支那駐屯軍が中央の指示である不拡大の方針に依って行った現地解決と云ふことは形式上成立した」と判断したという(「香月清司中将回想録」『現代史資料(12)』みすず書房、1965 年、538 頁)。 3 「29 軍は全面的に軍の要求を容れ逐次実行に移りつつあり」として派兵慎重論を東京の陸軍に打電したが、前日の20 日、閣議は華北派遣を容認していた。陸軍省部の要求に応えたものであったが、駐屯軍の意見や参謀本部から派遣したスタッフの現地情勢の報告によって参謀本部は再び派遣を見送った。 しかし、25日、26日と連続して起こった小衝突事件(廊坊、広安門事件)を契機として、陸軍省部は延期していた3個師団の動員実施を決定し、27日の閣議はこれを了承した。駐屯軍は28日に全面攻撃を開始し、翌日には永定河以北の北平・天津地区をほぼ制圧した。その直後に起こった通州事件 7 は、日本の中国に対する強硬な世論を決定的なものにした。 こうした事態拡大にもかかわらず、不拡大方針はなおも堅持され、参謀本部の派兵計画も作戦の範囲を北平、天津に限定することを基本方針としていた。石原作戦部長は、7月末から柴山兼四郎軍務課長と共に外務省や海軍に働きかけ、国民政府の側から停戦を求める可能性を追求した。陸海外3省の間で停戦条件を定めたうえ、在華日本紡績同業会理事の船津辰一郎に上海での中国側との接触を依頼した(船津工作)。船津は8月7日に上海に到着し接触を開始するが、上海情勢の緊迫のため進展しなかった 8。 盧溝橋における最初の発砲事件は「偶発的」であり 9、現地においては局地的解決の努力がなされた。しかし、この衝突事件を好機とみなした支那駐屯軍(のち北支那方面軍)や関東軍は、蒋介石政権の打倒と華北占領という構想を圧倒的な軍事力によって実行していく。現地軍の行動を抑制できなかった大きな理由の一つは、陸軍部内のいわゆる「拡大派」と「不拡大派」の対立にあった。石原作戦部長ら「不拡大派」は、中国との戦争は長期化を免れず、国力を消耗して対ソ軍備に支障を生じ、ソ連の介入を招く恐れがあるとして局地的解決を主張していた。他方、田中新一軍事課長や武藤章作戦課長らの「拡大派」は、事件勃発直後から、国民政府軍に一撃を加え、国民政府の抗日姿勢の転換を迫り、一挙に日中問題を解決するという「一撃論」を展開していたが、こうした一撃論は「不拡大派」を圧倒し、陸軍部内の多数派となるのである10。 事件発生から最も重要な最初の数日間に、外交ルートを通じた接触は南京の日高信六郎参事官と中国外交部との間の数回のみであり、事件処理の主導権は陸軍に握られ、外交当局は無力であった。事件の「拡大」の要因は政府や世論にもあった。上述のように、現地の停戦努力を無視した早い段階での派兵声明、それに同調する近衛首相や「暴支膺懲」一辺倒となるマスメディアの論調などは、日本軍を華北侵略に向かわせる複合的要因であった。近衛内閣も事態の拡大を抑制するより、この 7 北京郊外の通州で、冀東政府の保安隊が約 200 人余の日本人居留民などを殺害した事件。 8 戸部良一『ピース・フィーラー-支那事変和平工作の群像』論創社、1991 年、31-35 頁。 9 日本の研究者は偶発的発砲説が主流であり、中国の研究者には日本軍による計画的発砲説、謀略説が多い。秦『盧溝橋事件の研究』(前掲)は、29 軍兵士による偶発的発砲と推定している(138-82 頁)。安井『盧溝橋事件』(前掲)は、偶発説であるが直後の日本軍の対応を問題としている(168 頁、300-16頁)。 10 前掲、秦『盧溝橋事件の研究』282-339 頁。高橋久志「日華事変初期における陸軍中枢部」(『年報・近代日本研究(7)』山川出版社、1985 年)188-93 頁。「石原莞爾中将回想応答録」(『現代史資料(9)』みすず書房、1964 年)305-13 頁。 4 事件を行き詰まっていた中国政策の打開の好機ととらえ、蒋介石政権の早期敗北を想定して大兵力の派遣を容認し、現地解決の努力を押し流していく。 この間、蒋介石は7 月29 日の緊急記者会見で、今や事態は「最後の関頭」にいたったことを認め、「局地的解決の可能性はまったくない」と、抗戦決意を改めて明らかにし、共産党との提携による対日統一戦線の形成(第2 次国共合作)に向けて両党間の懸案解決に動き出す。蒋介石は統一戦線における主導権掌握をねらった中ソ不可侵条約の締結(8 月21 日)、ソ連の対日参戦の要請(11月26 日)、華北の事態の国際連盟への提訴(9 月12 日)など戦争の「国際化」による最終的勝利をめざすことになる11。 2)関東軍の積極介入と北支那方面軍の南下 事件勃発前、支那駐屯軍よりも強硬な中国政策を東京に迫っていたのは関東軍であった。陸軍省は、5 月末に柴山軍務課長を奉天に派遣し、華北分離工作の停止を求めた四相会議決定「対支実行策」(37 年4 月16 日)を関東軍に説明したが、関東軍は南京政府との国交調整の必要を認めず、武力による「一撃」を説くのみであった12。事変勃発後、関東軍は内蒙工作の促進と中国軍の熱河、チャハル進出を防ぐため、華北作戦と連携した内蒙古における兵力使用を参謀本部に再三具申していたが、不拡大方針の参謀本部は7 月末まで認めなかった。しかし、関東軍の強い意見具申の前に8 月7 日、参謀本部はチャハル作戦を容認した。元来、チャハル作戦はチャハル省内の中国軍を掃滅するため支那駐屯軍が担う作戦であったが、脇役であった関東軍が主役となる主客転倒の作戦と化した。チャハルに派遣された蒙疆兵団は張家口方面に進撃し、8 月末に占領した。その後も関東軍は南下を続け、チャハル、綏遠両省を勢力下に収め、次々に傀儡政権を樹立した。華北・内蒙を中国政府の影響下から切り離し、要地に駐兵権を獲得して重要資源の優先的開発を行うことが目標であった。 一方、華北では、8月31日、支那駐屯軍が北支那方面軍(寺内寿一司令官)に改編される。朝鮮軍や内地から増派を得て8個師団の大兵力となった北支那方面軍は2軍に分かれて南下し、河北、山西、山東の各省に侵攻した。9月末には保定を占領したが、中国軍が退避戦法をとったため作戦目的は達成されなかった。しかし、北支那方面軍は作戦地域を保定-滄州付近と示していたが、勢いに乗じてこれを突破してしまった。参謀本部はこれを追認し、さらに石家荘―徳州の線に拡大したが、北支那方面軍はこの制限線も大きく越えてしまう。そして10月中旬までに石家荘を占領した。保定作戦で終わるはずの攻勢作戦が、北支那方面軍に引きずられて石家荘作戦に発展したのである。さらに方面軍は、南京政府の抗戦意思の挫折のためには、徐州進撃が必要と判断するようになる。 3)上海派兵 11 樹中毅「蒋介石の民族革命戦術と対日抵抗戦略」(『国際政治』152 号、2008 年3 月)76-78 頁。鹿錫俊「世界化する戦争と中国の『国際的解決』戦略」(石田憲編著『膨張する帝国 拡散する帝国』東京大学出版会、2007 年)211-19 頁。 12 臼井勝美「史料解題 昭和十二年『関東軍』の対中国政策について」(『外交史料館報』第11 号、1997年6 月)64-65 頁。 5 海軍の動向に眼を向けると、事変勃発後、軍令部や中国警備を担当する第3艦隊には強硬な空爆論も存在したが、米内光政海相は外交的解決に期待し、水面下で進んでいた船津工作に望みを託していた。しかし、上海での8月9日の海軍将兵の殺害事件(大山事件)は海軍部内の強硬論を刺戟した13。佐世保に待機中の陸戦隊が急遽派遣され、上海は一触即発の危機に陥った。 8月12日、国民党中央執行委員会常務委員会は、戦時状態に突入する旨秘密裏に決定した。14日払暁、中国軍は先制攻撃を開始し、空軍も第3艦隊旗艦「出雲」及び陸戦隊本部を爆撃した。蒋介石が上海を固守するために総反撃を発動したのは、ソ連の介入や列国の対日制裁に期待し、さらに日本の兵力を分散し、華北占領の計画を挫折させるためでもあった14。上海防衛戦には国民政府軍の精鋭部隊が投入され、その兵力は70万人を越え、戦死者も膨大な数にのぼった。 8月13日の閣議は、派兵に消極的であった石原作戦部長らの意見を抑えて、陸軍部隊の上海派兵を承認した15。米内海相も陸軍の上海派兵には積極的ではなかった。しかし、旗艦「出雲」の中国空軍による爆撃によって態度を急転させ、14日の政府声明作成のための臨時閣議では、「不拡大主義」の放棄を主張し、南京占領の提言にも及んだ。8月15日の政府声明は、対ソ戦考慮の観点から、依然、不拡大方針のもとで早期解決に努力すべきであるとする杉山陸相の意見によって不拡大方針の放棄は示さず、南京政府の打倒ではなく「反省を促す」ための出兵であることを強調していた16。 米内の積極的な派兵論への転換は、海軍の強硬姿勢への傾斜に歯止めを失ったことを意味した。15日に下令された上海派遣軍は、純粋の作戦軍としての「戦闘序列」としてではなく、一時的な派遣の「編組」の形を取っていた。その任務も、上海在留邦人の保護という限定されたものであった17。しかし、上海戦は中国軍の激しい抵抗のなかで、事件を局地紛争から実質的な全面戦争に転化させる。 9月末、石原作戦部長は更迭され、後任には下村定少将が就任した。下村は石原と同じく戦争の長期化がソ連介入を招くことを恐れていたが、主戦場を華北から華中に転換し、むしろ積極作戦によって敵の主力軍を潰滅させる短期決戦が必要と考えた18。8月に参謀次長に就任していた多田駿中将もこれを支持した。この積極作戦の第1歩が、11月5日の第10軍による杭州湾への奇襲上陸であった。その直後、上海派遣軍と第10軍が統合され、松井石根を司令官に暫定的に中支那方面軍が編成された。その任務はもはや居留民の保護ではなく、北支那方面軍と同様に敵の戦意を挫くことであった。杭州湾上陸の成功は上海方面の戦況を一変させ、中国軍は退却を開始し、11月中旬、日本軍は上海全域を制圧した。 13 相澤淳『海軍の選択』中央公論新社、2002 年、104 頁。細川護貞ほか編『高松宮日記 第2 巻』、中央公論社、1996 年、530、533 頁。 14 楊天石(陳群元訳)「1937,中国軍対日作戦の第1年」(波多野澄雄・戸部良一編『日中戦争の軍事的展開』慶應義塾大学出版会、2006 年)99,108 頁。楊天石『我尋真実的蒋介石』三聯書店、2008 年、244頁。 15 「中支派兵の決定」(『現代史資料(12)』)364-94 頁。 16 前掲、相澤『海軍の選択』105-10 頁。戦史叢書『大本営海軍部大東亜戦争開戦経緯(1)』朝雲新聞社、1979 年、214 頁。 17 戦史叢書『支那事変陸軍作戦(1)』266 頁。正式な「戦闘序列」の発令は9 月11 日(同書、298 頁)。 18 「下村定大将回想応答録」(『現代史資料(9)』)378-81 頁。 6 しかし、第10軍は、敵の退路を遮断するためさらに追撃を求めた。作戦部は作戦地域を蘇州―嘉興のライン(制令線)の東側と設定した。方面軍は制令線まで急速に進出すると、今度は制令線を撤廃して南京に迫るべきであると主張した19。南京はすでに8月15日から日本海軍による激しい渡洋爆撃に見舞われていたが、南京のみならず上海、漢口など諸都市に対する無差別爆撃は国際的非難を浴びていた。 4)南京攻略と南京虐殺事件 参謀本部では河辺虎四郎作戦課長に加え多田参謀次長らが、さらなる作戦地域の拡大に反対していた。部内では制令線を撤廃し、南京攻略に向かうか否か激論となった。結局、中支那方面軍の再三の要求が作戦部の方針を南京攻略に向けさせた20。 11月15日、第10軍は「独断追撃」の敢行を決定し、南京進撃を開始した。松井中支那方面軍司令官もこれに同調し、軍中央を突き上げた。参謀本部では多田参謀次長や河辺作戦課長が、進行中のトラウトマン工作を念頭に、南京攻略以前に和平交渉による政治的解決を意図していたが、進撃を制止することは困難であり、12月1日、中支那方面軍に南京攻略命令が下った。12月10日、日本軍は南京総攻撃を開始し、最初の部隊は12日から城壁を突破して城内に進入した。翌13日、南京を占領した。 この間、中国政府高官は次々に南京を離れ、住民の多くも戦禍を逃れ市内に設置された南京国際安全区(「難民区」)に避難し、また、日本軍に利用されないために多くの建物が中国軍によって焼き払われた21。 国民政府は11月中旬の国防最高会議において重慶への遷都を決定したが、首都南京からの撤退には蒋介石が難色を示し、一定期間は固守する方針を定めた。首都衛戍司令官に任命された唐生智は、当初は南京の死守方針であり、松井司令官の開城投降勧告を拒否したが、12月11日、蒋介石から撤退の指示を受けると、12日に各所の防衛指揮官に包囲突破による撤退を命じた22。しかし、計画通り撤退できた部隊はわずかで、揚子江によって退路が塞がれ、中国軍は混乱状態となり、多数の敗残兵が便衣に着替えて「難民区」に逃れた23。 中支那方面軍は、上海戦以来の不軍紀行為の頻発から、南京陥落後における城内進入部隊を想定 19 井本熊男『作戦日誌で綴る支那事変』芙蓉書房、1984 年、161-79 頁。 20 南京戦史編集委員会編『南京戦史』(増補改訂版)偕行社、1993 年、17-20 頁。 21 孫宅巍主編『南京大屠殺』北京出版社、1997 年、72-73、83 頁。笠原十九司『南京事件』岩波書店、1997 年、120 頁。米国メディアの報道(南京事件調査研究会編訳『南京事件資料集1 アメリカ関係資料編』青木書店、1992 年、387-388、390、394、431-432、473-475 頁など)。 22 唐生智「南京防衛の経過」(南京戦史編集委員会編『南京戦史資料集Ⅰ』(増補改訂版)偕行社、1993年)623-26 頁。蒋介石の南京死守作戦の強行は、ソ連の軍事的介入を期待していたため、とする指摘もある(笠原十九司「国民政府軍の構造と作戦」中央大学人文科学研究所編『民国後期中国国民党政権の研究』中央大学出版部、2005 年、281-82 頁。前掲、楊「1937、中国軍対日抗戦の第1 年」116-18頁。前掲、楊『我尋真実的蒋介石』240-41 頁)。 23 唐司令官は、陣地の死守を命じ揚子江の無断の渡河を厳禁し、違反者は武力で制圧したため、同士討ちが始まり、多くの兵士が徒死するにいたった(前掲、孫宅巍主編『南京大屠殺』70-71、76、78 頁。臼井勝美『新版 日中戦争』中央公論社、2000 年、83-85 頁)。 7 して、「軍紀風紀を特に厳粛にし」という厳格な規制策(「南京攻略要領」)を通達していた。しかし、日本軍による捕虜、敗残兵、便衣兵、及び一部の市民に対して集団的、個別的な虐殺事件が発生し、強姦、略奪や放火も頻発した。日本軍による虐殺行為の犠牲者数は、極東国際軍事裁判における判決では20 万人以上(松井司令官に対する判決文では10 万人以上)、1947 年の南京戦犯裁判軍事法廷では30 万人以上とされ、中国の見解は後者の判決に依拠している。一方、日本側の研究では20 万人を上限として、4 万人、2 万人など様々な推計がなされている24。このように犠牲者数に諸説がある背景には、「虐殺」(不法殺害)の定義、対象とする地域・期間、埋葬記録、人口統計など資料に対する検証の相違が存在している25。 日本軍による暴行は、外国のメディアによって報道されるとともに、南京国際安全区委員会の日本大使館に対する抗議を通して外務省にもたらされ 26、さらに陸軍中央部にも伝えられていた。その結果、38 年1 月4 日には、閑院宮参謀総長名で、松井司令官宛に「軍紀・風紀ノ振作ニ関シテ切ニ要望ス」との異例の要望が発せられたのであった27。 虐殺などが生起した原因について、宣戦布告がなされず「事変」にとどまっていたため、日本側に、俘虜(捕虜)の取扱いに関する指針や占領後の住民保護を含む軍政計画が欠けており、また軍紀を取り締まる憲兵の数が少なかった点、食糧や物資補給を無視して南京攻略を敢行した結果、略奪行為が生起し、それが軍紀弛緩をもたらし不法行為を誘発した点などが指摘されている28。戦後、極東国際軍事裁判で松井司令官が、南京戦犯軍事法廷で谷寿夫第6 師団長が、それぞれ責任を問われ、死刑に処せられた。一方、犠牲が拡大した副次的要因としては、中国軍の南京防衛作戦の誤りと、それにともなう指揮統制の放棄・民衆保護対策の欠如があった29。南京国際安全区委員長のジョン・ラーベは、唐司令官は「無分別にも、兵士はおろか一般市民も犠牲にするのではないか」と懸念し、中国国民の生命を省みない国民政府・軍首脳の無責任さを批判していた30。 さて、首都南京の占領は「勝利者」意識を日本の朝野に広め、事変の収拾方策や和平条件に大き 24 秦郁彦『南京事件』中央公論社、2007 年増補版、317-19 頁。 25 日本で刊行された最も包括的な資料集は、南京戦史編集委員会編『南京戦史資料集Ⅰ、Ⅱ』(増補改訂版、偕行社、1993 年)であり、第16 師団長・中村今朝吾の日記、上海派遣軍参謀長・飯沼守の日記、歩兵第30 旅団長・佐々木到一の手記、中支那方面軍司令官・松井石根の陣中日記などを収めている。 26 石射猪大郎東亜局長は、38 年1 月6 日の日記に、「上海から来信、南京に於ける我軍の暴状を詳報し来る。略奪、強姦、目もあてられぬ惨状とある。嗚呼これが皇軍か」と記していた(伊藤隆・劉傑編『石射猪太郎日記』中央公論社、1993 年、240 頁)。 27 前掲、『南京戦史』(増補改訂版)398-99 頁。 28 前掲、秦『南京事件』103-07 頁。捕虜の取扱いも、殺害、解放、労役と部隊により異なっていた(原剛「いわゆる『南京事件』の不法殺害」軍事史学会編『日中戦争再論』錦正社、2008 年、139-55 頁)。北博昭『日中開戦』中央公論社、1994 年、54-68 頁。笠原十九司『南京難民区の百日』岩波書店、1995年、25-54 頁。 29 孫宅巍(笠原十九司訳)「南京防衛軍と唐生智」(藤原彰ほか編著『南京事件を考える』大月書店、1987年)153-58 頁。前掲、楊「1937、中国軍対日作戦の第1 年」113-22 頁。笠原十九司「南京防衛戦と中国軍」(洞富雄ほか編『南京大虐殺の研究』晩聲社、1992 年)214-41 頁。 30 ジョン・ラーベ(平野卿子訳)『南京の真実』講談社、1997 年、83-90 頁。なお、日中の「建設的対話」と「共通の理解」という観点から事件をとらえた研究として、楊大慶「南京アトロシテイズ」(劉傑ほか編『国境を越える歴史認識』東京大学出版会、2006 年、139-68 頁)。 8 な影響を与えた。近衛内閣が12月末の閣議で決定した「支那事変対処要綱」にも華北や上海周辺を政治的にも、経済的にも日本の強い影響下におくという、勝利者としての意識が反映している31。 5)和平をめぐる葛藤-トラウトマン工作32と9ヶ国条約会議 事変の収拾に関する日本政府の基本的立場は、あくまで日中間の問題として解決し、第3 国の斡旋や干渉を排除するというものであった。しかし、9 月に入り、長期戦の様相となると、軍事目的の達成に応じて「第三国の好意的斡旋」を活用する和平も視野に入ってくる。まず名乗りをあげたのはイギリスであった。9 月中旬、新着任のクレーギー駐日大使が仲介の可能性について広田弘毅外相に打診を行い、広田は具体的な和平条件を提示している。それは、華北の非武装地帯の設定、排日取締と防共協力を条件に華北政権の解消と国民政府の行政容認、満州国の不問などであった。これらの条件は蒋介石に伝えられたが、国際的な圧力や制裁を期待する蒋は受諾に否定的であった33。このとき国際連盟では、中国政府の提訴を受け9 月中旬から日中紛争を審議中であった。 その連盟総会では、中国代表・顧維鈞が日本の侵略行為に対し、国際的な緊急措置を訴えていたが、賛同する加盟国はソ連のみであり、日華紛争諮問委員会にこの問題を委任することとなった。諮問委員会は日本の行動を9 カ国条約違反とする報告書を総会に提出し、9 ヶ国条約会議の召集を勧告した。諮問委員会に非加盟国として参加していたアメリカの要請によるものであった。10 月6日総会はこれを採択し、連盟の勧告により10 月15 日、開催国ベルギーが中心となりブリュッセル会議(9 ヶ国条約会議)が呼びかけられた。一方、10 月5 日ローズヴェルト大統領は、こうした連盟の動きに呼応して直ちに参加を表明し、いわゆる「無法国家」を非難する隔離演説を行ったが、アメリカの意図は集団的圧力による調停にあって、具体的な制裁行動ではなかった34。 一方、欧米諸国による事変介入を警戒していた日本は、10 月22 日の閣議で不参加を決定した。不参加声明では、日本の行動は「支那側ノ挑発ニ対スル自衛手段」と主張したうえで、「両国間ノ直接交渉ニ依リテノミ之ヲ解決シ得ル」という立場を改めて表明した35。他方、広田外相は10 月27 日、各国大使に不参加理由を説明した際、閣議決定を踏まえ、第3 国の「好意的斡旋」は受諾の用意がある旨を通報したが、実際に和平条件を提示したのはドイツだけであった。 ドイツによる和平斡旋は参謀本部が熱心に取り組み、石原作戦部長の了解のもとで情報部員がドイツ大使館側と頻繁に接触していた。それが奏功し、10月下旬には上海で駐華ドイツ大使トラウトマンに和平条件が提示される。一方、東京では、陸軍の要望を容れた広田外相が駐日ドイツ大使ディルクセンに対し、クレーギーに示したと同様の和平条件(10月1日首相・陸・海・外の4相決定)を中国側に伝達するよう要請していた。11月初旬、トラウトマンは日本側の和平条件を蒋介石に伝 31 臼井勝美「日中戦争と軍部」(三宅正樹編『昭和史の軍部と政治(2)』第一法規出版、1983 年)74-5頁。 32 トラウトマン工作については、前掲、戸部『ピース・フィーラー』第2・3 章、劉傑『日中戦争下の外交』吉川弘文館、1995 年、第2 章。 33 前掲、戸部『ピース・フィーラー』67-71 頁。 34 入江昭『太平洋戦争の起源』東京大学出版会、1991 年、67-71 頁。上村伸一『日本外交史 第20 巻 日華事変(下)』鹿島研究所出版会、1971 年、170-75 頁。 35 前掲『日本外交年表並主要文書(下)』372-75 頁。 9 えるが、開催中であった9ヶ国条約会議の対日制裁に期待していた蒋はこれを拒否した。 その9ヶ国条約会議では顧維鈞が、経済制裁や抗戦継続のため中国への物的援助などの具体策を訴えるものの、参加各国はそれぞれの思惑から制裁措置を躊躇し、対中援助にも、一方への援助は停戦の可能性を閉ざすとして大半の国が慎重であった。結局、11月15日の本会議は対日非難の声明を採択して事実上終了した。 9 カ国条約会議が実効的な行動をとることなく11 月下旬に閉幕したこと、さらに上海戦における敗勢は蒋介石の態度を変化させる。12 月7 日、蒋はディルクセン大使を通じて、日本側の和平条件を基礎として交渉に応ずる意思を伝えたが、広田は最近の情勢変化は講和条件の変更を必要としている、として即答を避けた。南京攻略が迫っていたからである。 しかし、日本の朝野には、南京の陥落は国民政府の崩壊をもたらすであろう、という戦勝気分が横溢し、蒋政権はもはや和平の相手ではなくなっていた。とくに現地軍や関東軍には、蒋政権が降伏に応じないのであれば、その正統性を否認し、新たな中央政府を育成すべきである、とする主張が勢いを増してくる。他方、参謀本部は、南京陥落が蒋政権の降伏や崩壊にはつながらず、戦争の長期化を招くのみとし、この機会に比較的寛大な条件によって講和すべきであると考え、こうした考え方がトラウトマン工作を支えた。しかし、政府首脳の意見は、蒋政権の弱体化や崩壊を前提として厳しい講和条件を要求するか、あるいは、もはや蒋政権を否認し、講和交渉自体の必要性を認めないか、いずれかに収斂していく。 一方、国民政府のなかでも日本との講和をめぐって議論が分かれたが、最終的に38 年1 月2 日、蒋介石は、ドイツの調停を拒否し、抗戦を貫くことを決定した36。 1月11日には参謀本部の要請によって日露戦争以来の御前会議が開かれる。参謀本部は御前会議開催について、「戦勝国が敗戦国に対し過酷な条件を強要する」ことを戒める意味がある、と説明した。指導者たちは「戦勝国」としての意識につつまれ、和平条件が中国にとって受け入れ難いものとなったことを示している37。参謀本部は最後まで交渉による和平を主張するが、1月15日、政府は最終的に交渉の打ち切りを決定した。 こうして南京陥落という絶好の日中講和の機会は失われてしまう。1月11日の御前会議決定によれば、和平が不成立の場合、「帝国ハ爾後之ヲ相手トスル事変解決ニ期待ヲ掛ケス、新興支那政権ノ成立ヲ助長」する一方、国民政府の潰滅を図るか、または新興政権の傘下に吸収することになっていた。1月16日、この方針の下で「対手トセス」声明(第1次近衛声明)が発表される38。 36 前掲、楊「1937,中国軍対日作戦の第1年」118-19 頁。 37 「昭和十三年一月十一日御前会議に於ける参謀総長、軍令部総長、枢府議長の説明要旨」(『現代史資料(12)』395-398 頁)。 38 数日後、「対手トセス」とは、「国民政府ヲ否認スルト共ニ之ヲ抹殺セントスル」ものと補足説明された(『日本外交年表並主要文書(下)』、387頁)。 第2節 戦線拡大と持久戦 1)事変解決策の混迷 10 a.徐州作戦と「新興支那政権」 南京占領後、参謀本部作戦課は38年夏までは新しい作戦を実施しない方針(戦面不拡大)を固めていた。しかし、北支那方面軍は徐州付近の主力軍を包囲殲滅する作戦に固執し、執拗にその必要性を訴えたため、河辺作戦課長が北京に赴き、ソ連の介入に警戒を強める必要から占拠地域の安定的確保が急務と説得したが、華北の各軍は受け入れなかった39。徐州作戦は38年4月初旬に発動され、5月下旬に徐州を占領した。しかし、中国軍は日本軍が包囲網を完成する前に退却戦術をとったため、中国軍主力の包囲殲滅という目的は達成できなかった。 徐州占領後、近衛首相は内閣改造を行い、外相に宇垣一成を、陸相に板垣征四郎を任命した。改造後の近衛内閣は、6 月10 日には休眠状態であった大本営政府連絡会議に代えて五相会議(首相、蔵相、外相、陸海相)を設置し、事変の早期解決のため方策を改めて審議する。 蒋介石否認政策を前提とする中国政策は、現地軍の指導によって華北・華中の占領地に続々と作られた新政権(「新興支那政権」)を国民政府に代わる中央政権として育成する一方、国民政府を崩壊させるか、あるいは国民政府を新政権の傘下に吸収することであった。 問題は南京陥落によっても蒋政権に変化が見られないことであった。政府・軍部内には、中央政権の早期樹立を避け、国民政府との直接交渉を重視する指導者も少なくなかった。宇垣外相がそのような立場であった。他方、なおも国民政府の軍事的圧迫による瓦解、あるいは謀略工作による蒋介石の下野に期待する指導者は、現地軍の主張に同調していた。板垣陸相がその代表であった。また、蒋否認論を強硬に主張した関東軍も、中央政権の樹立には直ちに賛同しなかった。関東軍は華北・内蒙の自治政権樹立を優先し、過早に親日政権を糾合して中央集権化を図るより「分治による統一」の必要性を主張した40。五相会議は、まず、蒋政権が「屈服」(蒋の下野や転向)すれば、新中央政権の構成分子として認めるとの方針を打ち出し、限定的ながら和平交渉の可能性が生れるが、最大の問題は「新興支那政権」の基盤が弱体であったことである。38 年3 月、中支那方面軍が南京に樹立した中華民国維新政府も同様であった。 b.宇垣工作と日英協力構想 この間、外務省の石射猪太郎東亜局長は38 年6 月の意見書で、新興政権の合流による新中央政権樹立論や、臨時・維新両政府に国民政府を合流させる方法は、蒋の下野を前提としたもので現実性がなく、国民政府を正統政府として認め、漢口攻略までに和平交渉を開始するという「国民政府相手論」の推進を外相に進言している41。 石射の「国民政府相手論」に賛同していた宇垣外相は、38 年6 月の国民政府行政院長・孔祥煕の秘書・蕎輔三と香港総領事・中村豊一との接触を機として、国民政府との和平会談の実現に向け熱心に取り組む(宇垣・孔祥煕工作)。中村・蕎輔三会談は7 月までに6 回に及び、蕎輔山は、蒋 39 戦史叢書『支那事変陸軍作戦(1)』483-87 頁。河辺作戦課長はまもなく転出するが、河辺の転出によって作戦部内の「不拡大思想は完全に一掃」されたという(前掲、井本『作戦日誌で綴る支那事変』202-03 頁)。 40 前掲、戸部『ピース・フィーラー』168-88 頁。『続・現代史資料(4)陸軍:畑俊六日誌』みすず書房、1983 年、148-49 頁。 41 外務省編『外務省の百年(下)』原書房、1967 年、315-37 頁。 11 と孔が協議したとする和平条件を示すなど積極的な姿勢を示した。日本側が蒋の下野を必須条件としたため交渉は難航したが、中村は宇垣の意を汲み、実質的な蒋下野の棚上げ案など柔軟な姿勢をもって臨んでいた。他方、宇垣は他のルートにも関心を寄せ、とくに萱野長知を仲介として同じ孔との接触をはかっていたが、9 月末に突如として辞職し、和平工作も頓挫する。宇垣の辞職の原因は明らかでないが、国民政府を交渉相手とする宇垣の和平工作に、近衛首相をはじめ国内の支持が得られなかったことが一因であった42。 他方、この宇垣外相のもとで、中国に関する日英協力をめざした外交工作が進展している。この日英協力路線は、近衛改造内閣に入閣した池田成彬蔵相を中心としたもので、懸案問題を日英間で解決し、日本の優位の下で中国に「講和」を迫り、戦後経営も日英協力によって行う、というもので、財界や元老など「親英勢力」の支援も得て宇垣外相による外交工作の一環となる。イギリス側では、「穏健派」が対日関係の修復、さらに日中調停をも視野に入れ、クレーギー大使が宇垣と交渉に臨む。しかし、日中直接交渉を重んずる宇垣はイギリスの仲介には消極的であり、交渉は進展しなかった43。 42 前掲、戸部『ピース・フィーラー』213-52 頁。 43 松浦正孝『日中戦争期における政治と経済』東京大学出版会、1995 年、第3 章。前掲『続・現代史資料(4)』157 頁。Anthony Best, Britain, Japan and Pearl Harbor Avoiding war in East Asia, 1936-1941(London Routledge,1995),pp. 55-60. 日中戦争―日本軍の侵略と中国の抗戦 波多野澄雄・庄司潤一郎<その2> 第1期「日中歴史共同研究」報告書 目次 日中歴史共同研究
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あんにょんはせよ。 韓国挺身隊問題対策協議会 MRです。 久しぶりに地方議会決議採択のニュースです。 8月30日に江原道(カンウォンド)春川(チュンチョン)市議会で 日本軍「慰安婦」問題の解決を求める決議が採択されました。 把握しているだけで韓国での決議採択は53都市になります。 また9月19日からは 国会議員会館で国会議員を対象にした「平和碑」募金展示会を開くなど 国会や地方議会への働き掛けにもより一層積極的に動いていく予定です。 日本でも広く知らせていただき活動の力になればと思います。 地方都市名 1 2009年 7/24 大邱(テグ)広域市 2 9/8 京畿道 富川(プチョン)市 3 11/30 慶尚南道 統営(トンヨン)市 4 12/24 慶尚南道 巨済(コジェ)市 5 12/24 慶尚南道 6 2010年 1/12 慶尚南道 昌原市(チャンウォン)市 7 1/15 全羅北道 井邑(チョンウプ)市 8 1/21 慶尚南道 陝川(ハプチョン) 郡 9 1/27 全羅北道 全州(チョンジュ)市 10 2/1 全羅南道 木浦(モッポ)市 11 2/5 仁川(インチョン)広域市 南区 12 2/22 京畿道 安山(アンサン)市 13 2/26 京畿道 城南(ソンナム)市 14 3/4 蔚山(ウルサン)広域市 南区 15 3/4 京畿道 河南(ハナム)市 16 3/15 慶尚南道 梁山(ヤンサン)市 17 3/16 慶尚南道 南海(ナメ)郡 18 3/23 蔚山(ウルサン)広域市 19 4/5 慶尚南道 馬山(マサン)市 20 4/9 釜山(プサン)広域市 21 4/14 慶尚南道 居昌(コチャン)郡 22 4/16 慶尚南道 鎮海(チネ)市 23 4/19 慶尚南道 晋州(チンジュ)市 24 4/27 慶尚南道 泗川(サチョン)市 25 8/13 ソウル特別市 26 8/16 光州(クァンジュ)広域市 27 8/16 光州(クァンジュ)広域市 西区 28 8/27 ソウル特別市 松坡(ソンパ)区 29 8/31 江原(道 原州(ウォンジュ)市 30 8/31 ソウル特別市 西大門(ソデムン)区 31 9/1 大田(テジョン)広域市 32 9/1 ソウル特別市 陽川(ヤンチョン)区 33 9/2 光州広域市 北区 34 9/7 光州広域市 南区 35 9/10 ソウル特別市 中浪(チュンナン)区 36 9/13 全羅南道 求禮(クレ)郡 37 9/15 慶尚南道 咸陽(ハミャン)郡 38 9/16 忠清北道 39 9/16 京畿道 安養(アニャン)市 40 10/25 慶尚南道 昌寧(チャンニョン)郡 41 10/29 京畿道 烏山(オサン)市 42 2011年 2/8 大田広域市 東区 43 2/18 ソウル特別市 蘆原(ノウォン)区 44 2/22 京畿道 議政府(ウィジョンブ)市 45 2/22 全羅南道 霊光(ヨングァン)郡 46 2/28 ソウル特別市 鍾路(チョンノ)区 47 3/9 光州広域市 光山(クァンサン)区 48 5/13 忠清北道 舒川(ソチョン)郡 49 大田広域市 西区 50 5/17 全羅北道議会 51 6/24 慶尚北道議会 52 6/30 ソウル特別市 広津(クァンジン)区議会 53 8/30 江原道 春川(チュンチョン)市議会 *参考: http //japanese.yonhapnews.co.kr/headline/2011/08/30/0200000000AJP20110830002700882.HTML 韓国政府の慰安婦問題静観は違憲、韓国憲法裁判所 ===================================== anatakara.com